★第361話:吉田拓郎の「人生を語らず」(2) | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

 拙ブログを検索したところ、吉田拓郎という文字が出てくるものが132件もあった。これは予想外だった。間違いなく一番多く登場する名前だ。自分の人生にも大きく影響した人物である。

(お詫び:2/18(土)に投稿した記事を増稿すると共に、関東での生活について一部を訂正しています。当初ご覧いただいた方には失礼しました。)

 

吉田拓郎の生まれと育ち

 「ニューミュージックを代表する音楽家」として音楽史に燦然と輝く功績を残した吉田拓郎(現在76歳)だが、鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)生まれ。

 1952年春、鹿児島郡谷山町(現在の鹿児島市)に転居し、谷山小学校に2年生まで在学した(歌手の西郷輝彦と同期生)が、9歳小学校3年から広島市南区西霞町に移転し、小学3年生から大学まで広島市で育った。育ちが広島市なので、広島人と呼んでも差し支えないだろう。(地図) 

  

 今住んでいるところは違うが、自分も生まれてから大学まで広島県で育った広島人。長兄の出身高校は彼と同じ広島皆実高校(「みなみ」と読む)だ。

 彼が曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡したという。 

 1965年に広島商科大学(現在の広島修道大学)に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにビートルズを真似た4人編成のロックバンド・ザ・ダウンタウンズを結成。ボーカルとギターを担当した。

 平凡パンチで「和製ボブ・ディラン」と紹介され、広島市内の繁華街・本通りを歩くだけで「拓郎だ! 拓郎だ!」と、人だかりができるほどの広島で有名人だった。

 田家秀樹「小説・吉田拓郎 いつも見ていた広島 」(小学館文庫、2009年、写真)という、希代のスーパースターを生んだ土地と時代に繰り広げられる青春群像を描いた本がある。


 彼は「僕が広島で過ごした高校、大学時代こそがその後50年以上続けて音楽をやって行く事になる言わば『すべての始まり』であり『僕を生み出した季節』」と述べているそうだ。

広島ゆかりの歌(広島弁&原爆)にはこんな曲がある。 
吉田拓郎/刑事物語主題歌「唇をかみしめて」(1982年)

(20) 唇をかみしめて/吉田拓郎 - YouTube

吉田拓郎/いつも見ていたヒロシマ(1980年)

 彼の大学時代は、学生運動の火の手が全国の大学で上がっていたころだった。フォークソングのテーマも「仲間同士の連帯」や「体制への抵抗」が多かった。

 「イメージの詩」は拓郎にとって、あくまでラブソングだったが、70年安保敗北後の時代の空気がそうさせなかった。60年安保のときの西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」の位置づけのような感じだ。  

 激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージでその「イメージの詩」を歌う。しかし、演奏終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ、激しいヤジを浴びせられたそうだ。(Wikipedia参照)

 1969年2月、自分の母校だった広島大学は、学生のバリケードで封鎖され(写真)、8月、機動隊導入により封鎖解除されるまでの半年間、休校となった。残念ながら(?)自分はノンポリだったので、当時学校へ行くことも無く、彼と出会うことは無かった。
 

 

関東に引っ越し 

挫折の歴史

 上京するまで、拓郎は広島のスターだった。しかし、目指したプロへの道は決して平たんなものではなかった。

 富澤一誠「あの素晴らしい曲をもう一度」(新潮新書、2010年)によると、70年6月に「イメージの詩」でデビューするまでは想像以上のイバラの道で、5年間に4回の挫折を味わうほど「思い出すのもイヤな」ことの連続だったという。

 その4回とは、次のことだと、その書に書かれている。

1.ザ・バチュラーズなるバンドを組んで渡辺プロダクションに行って断られる。

2.「コロンビア・フォーク・コンテスト」で決勝大会に出場したものの、3位で落選。

3.検見川(現在は千葉市に編入)の広徳院というお寺に居候して再アタックしたが、失敗。

4.ダウンタウンズというバンドを作って「ヤマハライトミュージックコンテスト」に出場したが、決勝大会で入賞も出来なかった。

 そして意外なことだが、彼は広島弁を気にしていて、ほとんど言いたいことが言えない状態だった。71年のマンスリーコンサートで広島時代のカンを取り戻し、水を得た魚の様に生き生きとし出したという。後はエンジン全開のクルマさながらにぶっ飛ばし、後述する、第三回全日本フォークジャンボリーで遂にトップに躍り出ることになる。

引っ越しの歴史

 TBSテレビの「情熱大陸」1999年6月20日の放送で、拓郎が上京して以来住んだ思い出の場所を辿った映像を見たことがある。吉田拓郎 - 引っ越しの詩《拓郎東京物語》 - YouTube

 彼は、14回も引越しをしたそうだ。そして、3万5千円の家賃の家が見つかったが、給料が3万円で、既に給料より家賃の方が高かったことも述べている。

 最初は1966年(20歳)、千葉(検見川町)のお寺・広徳院に居候した。一人暮らしが始まったのは25歳、杉並区堀ノ内であり、26歳で同区高円寺北に移った。  

 高円寺は、東京から八王子・高尾までのJR中央線の途中駅と同じ地名。今や高円寺と言えば「高円寺阿波踊り」(写真左)で全国的に有名な街である。
 ところが、70年代初頭、知名度は決して高くは無かった。その高円寺の名前を、ある世代にとって全国的な知名度にしたのが、吉田拓郎
である。

 1972年7月21日発売のアルバム「元気です。」(CBSソニー、写真中央)の中の「高円寺」で初めて高円寺を知った人は少なくない。これは、吉田拓郎のアルバムとしては最高のセールスを記録している。
 ところが、1971年11月20日のアルバム
「人間なんて」(エレックレコード、写真右)のジャケットで、マンションの階段に座っている写真が使われているが、このマンションは、彼が「初めて一人暮らしをした場所」杉並区堀ノ内のようだ。

 

吉田拓郎とライブ

第3回全日本フォークジャンボリー

 拓郎の時代が到来したのは翌1971年8月。きっかけは岐阜県中津川市椛の湖畔で3万人の聴衆を集め、3日間に渡って行われた屋外コンサート「第3回全日本フォークジャンボリー」だった。会場は怒号に包まれ、大混乱に陥ったが、彼らは新しいスターの登場を渇望し、待ち続けていた。主役が岡林信康から吉田拓郎に代わり、「日本の音楽シーンがフォークからロックに変わった瞬間だった」。拓郎は観客の求めに応じる形で「人間なんて」を歌った。実に2時間も歌い続けた。途中でPA(音響装置)に不具合が生じ、マイクの音が出なくなったが、それでも拓郎は歌をやめなかった。

吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋

 そして、日本のポピュラー音楽史に於いては1975年の「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」(写真)が、フォークからニューミュージックJ-POP時代の分岐点と言われる。

 同年8月2日から3日、静岡県掛川市・つま恋で、別名「夏フェス」と呼ばれる、野外オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」を開催。6万人とも7万人とも言われる空前絶後の観客数を動員した。(地図)

 野外で5万人以上を集めるオールナイトコンサートは、それまで日本では前例がなく、大変だった。当時の掛川市の人口は6万人。その一角に市の総人口を上回る人が集まるのだから、当日まで想定外の連続であった。最寄りの掛川駅にはまだ新幹線は止まらず、大半の観客は在来線を乗り継いで掛川駅で降り、バスでも15分かかる畑の多い道を延々と歩くなどして集まった。バスも本数が少なく、ほとんどの人は歩き、つま恋のゲートまでの数キロ、歩行者の行列ができた。今と違い、全席自由だったので、なるべく前で観ようと、早い人で1ヶ月も前からつま恋のゲートに並び始めて、一週間前には3〜5千人が野宿をし始めた。全国から集まったファンの男女比は女性6割、男性4割であった。会場から数キロ圏内の商店から商品はほぼ売り切れ。またゲート前にはトイレがなく、女性は近隣の民家でトイレを借りたが、男は周辺の茶畑で野糞をし始めた。このため農家から苦情が入り、スタッフの若手社員が連日回収に行かされた。炎天下での人糞処理は過酷なものであったという。会場内のトイレも地面に穴を掘り周囲をパネルで囲った簡素なものがほとんどだった。日に日に野宿は増え、難民キャンプのようになり、ライブ前夜には1万人を超えた。主催者側は事件事故の発生を恐れ、深夜もゲート周辺をライトで照らし続けたり、一部の会場施設を開放したり対応に追われた。つま恋が開業したのは前年のことで、運営をしているヤマハとしても、何か問題が起こってしまうと、これから始まろうとしているつま恋の歴史を閉ざしてしまう可能性があったといわれる。

 Wikipediaによると、これだけの曲を歌ったそうだ。

吉田拓郎&かぐや姫コンサート in つま恋 2006

 いくら音楽が好きだからって、そうそう泣ける曲に巡り合うことはない。「泣ける」と断言できるのはこの曲と、美空ひばり「一本の鉛筆」くらいだ。

 昔、中島みゆき吉田拓郎「追っかけ」をしていたときがあり、意味深の曲でもあるのだが、「吉田拓郎&かぐや姫コンサート in つま恋 2006」でサプライズ共演している。(写真)


 <歌詞>
 (拓郎)
ブルー音符
なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている 永遠の嘘を聞きたくて
今はまだ二人とも旅の途中だと 君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでも種明かしをしないでくれ 永遠の嘘をついてくれ  何もかも愛ゆえのことだったと言ってくれ
音符 
(みゆき)
ブルー音符
ニューヨークは粉雪の中らしい 成田からの便はまだ間に合うだろうか 片っぱしから友達に借りまくれば  けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい
 なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている 永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと 君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでも種明かしをしないでくれ 永遠の嘘をついてくれ 何もかも愛ゆえの事だったと言ってくれ
 この国を見限ってやるのは俺のほうだと 追われながらほざいた友からの手紙には 上海の裏街で病んでいると 見知らぬ誰かの下手な代筆文字 なのに永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる 永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと 君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでも種明かしをしないでくれ 永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか
音符
(拓郎) 
ブルー音符
傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく 放っておいてくれと最後の力で嘘をつく 嘘をつけ永遠のさよならのかわりに やりきれない事実のかわりに たとえくりかえし何故と尋ねても
振り払え風のようにあざやかに 人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから
音符
(拓郎&みゆき) 
ブルー音符
君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでも種明かしをしないでくれ 永遠の嘘をついてくれ
出会わなければよかった人などないと笑ってくれ
 君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでも種明かしをしないでくれ 永遠の嘘をついてくれ
音符 

 「永遠の嘘をついてくれ」は1996年、吉田拓郎が中島みゆきに「遺書のような曲を」と頼み込み作られた。作詞:中島みゆき、作曲:吉田拓郎 

 

惜しまれながら引退

 その吉田拓郎は昨年の2022年、本年を以て全ての音楽活動から引退する意思を明らかにした。コロナの影響でラスト・ツアーを断念した76歳、吉田拓郎らしく最後を迎えるために、現在出来ることすべてに...ベストを尽くして制作されたラストメッセージ。これにより同年6月29日発売のアルバム「ah-面白かった」(avex trax、写真左)が最後のCDリリースとなり、自身がパーソナリティを務めるニッポン放送「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」(写真右)も12月16日で終了した。

 「ah-面白かった」には色々あった‥でも‥いつも心に決めて来た事‥一人になっても構わないから先に行く‥それが僕の音楽人生!いよいよだな」とコメントしている。

 また、7月21日に「LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP」(フジテレビ)が放送され、これを以て拓郎自身最後のテレビ出演とされた。

 ところが、2023年2月18日(本日)「オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル」11:00 - 13:00  ゲストに篠原ともえ(写真中央)と女優の奈緒(写真右)を迎えるそうだ。

 
 早速ネットにその内容が報告されていた。

 「吉田拓郎、過去のレコード会社設立は「人生でいちばん悔やまれる」 昨年12月以来のANN出演」(日刊スポーツ、2/18)

 

「今はまだ人生を語らず」がオリジナル完全復刻!

 ところで、1974年12月10日に発売された吉田拓郎の5枚目のオリジナル・アルバム「今はまだ人生を語らず」が、昨年の12月21日、オリジナル収録通りの完全復刻されている。

*アルバムタイトルは「今はまだ人生を語らず」、曲名は「人生を語らず」です。

 「ペニーレインでバーボン」「人生を語らず」森進一に提供した「襟裳岬」かまやつひろしとデュエットした「シンシア」など名曲揃いの全12曲収録。

 高音質を追求したSA-CD Hybrid盤<SA-CD(スーパーオーディオCD)と通常CDとが2層構造となったディスク>。

 

 このCDに収められた曲の内、いくつかを紹介してみたい。
当時の心情を克明に捉えた「ペニーレインでバーボン」
 オープニングを飾る「ペニーレインでバーボン」。
ここに描かれているのは、バーボン(写真中央)を燃料にして酩酊感と諦観を抱えながら宵闇に向かって吠え続ける男のやるせない独白劇だ。息継ぎすることすら忘れたかのような歌唱にはまごうことなきロックスピリッツが宿っており、抗い難い魅力を放つ。フォークの旗手と目され、期せずして先頭のポジションに就かざるを得なかったシンガーソングライターの心情を克明にドキュメントした本作を象徴する1曲といえよう。
ブルー音符だれのもの 見ている者はいつもつんぼさじき 気持ちの悪い政治家どもが 勝手なことばかり言い合って 時には無関心なこの僕でさえが 腹を立てたり怒ったり…音符
 ペニーレインとは彼が足しげく通った原宿のレストランバー(写真左)。

 1974年にビートルズの名曲から店名を取ってオープンした、拓郎が「ペニーレインでバーボン」と唄ったことで一躍脚光を浴び、「フォークの聖地」「1970年代原宿の象徴」などといわれた。フォーク、ニューミュージック系のミュージシャンや、ファッション関係者などの業界人が集い、修学旅行のコースにもなった。

 さらに、1975年にTBSが放映したドラマで、当時人気絶頂の郷ひろみ西城秀樹桜田淳子が主演した「あこがれ共同体」(写真)の舞台が原宿で、ペニーレインも実名で毎回のように登場したことで、原宿、表参道には全国から多くの若者が集まった。

 しか800年代に入ると、原宿は徐々にローティーン好みの街に変容し拓郎世代は反発。結局、1984年11月21日には拓郎自身も、アルバム「FOREVER YOUNG」(フォーライフレコード、写真)で「ペニー・レインには行かない」を発表し、原宿との決別を宣言した。

 またペニー・レイン自体も固定ファンが徐々に離れ、1990年にはその役割を終える形で閉店した。それでも2006年に復活し、現在も営業を続けている。 

 そして、2014年、拓郎ファンの重松清が初めて舞台の原作となる「あの頃僕らはペニーレインで」を書き下ろし、朗読劇として上演された。

 ところが、「ペニーレインでバーボン」の歌詞に「つんぼ桟敷」という部分的に差別用語とも受け取れる言葉が含まれていることから、実質廃盤状態となっていた。
 2006年に行われた
「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」では、該当部分を「蚊帳の外」と歌い換え、この曲が披露されたというが、今回の復刻盤でようやく事実上解禁されたことになる。

吉田拓郎/ペニーレインでバーボン(1974年)

「何もない春」の歌詞で地元民の反感を買った「襟裳岬」

 作詞は岡本おさみ(2015年、73歳で没、写真)、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表するコンビの作品。森進一が唄い、第16回日本レコード大賞を受賞した。

 フォーク界との連携による本作の成功は、以後の歌謡界に大きな影響を与えた。本作以降、フォーク系シンガー・ソングライターが歌謡ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった。 
 ヒットした当時、
襟裳岬(写真)のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です」という歌詞に、「何もない春」なんてと反感を持たれ、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあった。

 しかし、襟裳の知名度アップに貢献したということでそういった反感も消え、後にえりも町から森に感謝状が贈られた。反感を買ってしまった「何もない春」の部分であるが、実際は作詞した岡本おさみが襟裳に訪れた時に大変寒く、民家で「何もないですがお茶でもいかがですか?」と温かくもてなしされたことに感動して作詞したものであった。 

 岡本おさみは、吉田拓郎には、「アジアの片隅で」「いつも見ていたヒロシマ」「おきざりにした悲しみは」「旅の宿」「祭りのあと」「落陽」などを提供。

 彼の作詞、拓郎の作曲で他の歌手が歌ってヒットした曲に、猫地下鉄にのって」、森山良子「歌ってよ夕陽の歌を」、由紀さおり「ルーム・ライト 」(室内灯)などがある。
森進一/襟裳岬(1974年)

「シンシア」は南沙織「早春の港」のアンサーソングだった

 「シンシア」とは、「17才」(1971年)でレコード・デビューを飾り、「元祖アイドル」と語られることもある女性歌手、南沙織(現在68歳、写真)の愛称で、彼女のクリスチャン・ネームでもある。

 南の6枚目のシングル盤「早春の港」(1973年)を耳にした彼がこの楽曲に感銘を受け、アンサーソングとして制作したのが本楽曲であり、現役ミュージシャンが同時期に活躍するアイドルに捧げた歌という点が特徴である。「シンシア」は「よしだたくろう&かまやつひろし」名義で発表した。 

よしだたくろう&かまやつひろし/シンシア(1974年)

 ちょっと前まで「人生を語らず」のアンサーソングは「今日までそして明日から」だと思っていた。しかし、前者は1974年、後者は1971年。答えの方を前に言うなんて、そんなことはありえない話。まあ、難しく考えることも無いか。

吉田拓郎/今日までそして明日から(1971年)

<歌詞>

 ブルー音符わたしは今日まで生きてみました 時にはだれかの力をかりて 時にはだれかにしがみついてわたしは今日まで生きてみました そして今 わたしは思っています 明日からも こうして生きて行くだろうと

 わたしは今日まで生きてみました 時にはだれかをあざ笑って 時にはだれかにおびやかされて わたしは今日まで生きてみました そして今 わたしは思っています 明日からも こうして生きて行くだろうと

 わたしは今日まで生きてみました 時にはだれかにうらぎられて 時にはだれかと手をとりあって わたしは今日まで生きてみました そして今 わたしは思っています 明日からもこうして生きて行くだろうと

 わたしには わたしの生き方がある それはおそらく自分というものを 知ることから始まるものでしょう けれど それにしたって どこで どう変わってしまうか そうです わからないまま生きてゆく 明日からの そんなわたしです音符

(Wikipedia参照)