●オレンジの悪魔
今から1ヶ月前、10月10日は「双十節」と呼ばれる台湾のナショナルデー、建国記念日(国慶節)だった。
台湾の総統府前の広場で行われるセレモニーは、通常、総統が演説で中国に対してどのようなメッセージを発するかばかりが注目されるのだが、今年はいささか様子が違っていた。
台湾社会の関心が注がれたのは、日本からやってきた「オレンジの悪魔」と呼ばれる京都橘高校吹奏楽部の高校生たち。(写真)
88人のメンバーの内、一番の人気者は指揮をとった、ドラムメジャーの木花百花さんだった。
動画再生回数が1億回を超えるという、台湾に大旋風が吹き荒れる。ところがこのニュースは日本ではほとんど報じられていない。
マスコミも、中国に対して配慮しているようだ。
●スウィング・ジャズ
「スウィング・ジャズ」とは、1930年代から40年代にかけて社交ダンスの伴奏音楽として大流行した、ビックバンド・オーケストラによるジャズのこと。(写真)
異国の地で繰り広がれた京都橘高校吹奏楽部の演奏の中に、いずれも「スウィングの王様」と呼ばれている、スウィングジャズの双璧、グレン・ミラーと、ベニー・グッドマンの慣れ親しんだ名曲があり、懐かしさとともに、演奏だけでなく、パフォーマンスの素晴らしさに酔いしれた。
●スウィングの王様・グレン・ミラー&ベニー・グッドマン
京都橘高校吹奏楽部の演奏の内で、グレン・ミラーは、「茶色の小瓶」と「イン・ザ・ムード」、ベニー・グッドマンは「シング・シング・シング」と、「メモリーズ・オブ・ユー」だった。
どれも戦前の曲ばかりだが、マイ・ブームの時期は、中学から高校にかけてだったと思う。
この二人の人気は頂点に達し、「グレンミラー物語」や「ベニーグッドマン物語」など楽団を描いた映画も上演された。(画像)
「グレン・ミラー物語」は、1937年グレン・ミラー楽団を結成、第二次世界大戦で兵役に着くまで多くのヒットを放つが、除隊後の1944年、フランスへ慰問演奏に飛び立った後、乗っていた専用機がドーバー海峡で行方不明になり、40歳の短い生涯を終えるまでのグレン・ミラーを描いた。
「ベニー・グッドマン物語」は「グレン・ミラー物語」のヒットにあやかり作成した映画で、1938年のカーネギーホールでの歴史的コンサートがクライマックスとなるが、当時グッドマンが現存していることと、ミラーのようなドラマチックな人生ではなかったため、映画の人気は今ひとつであったとされる。
■グレン・ミラー
グレン・ミラー楽団については、ベスト・セレクションのレコードを買ったり、広島の演奏会を聴きに行ったこともある。もちろん、彼自身はとっくの昔に鬼界に入っているので、ニュー・グレン・ミラー楽団であり、指揮者は別人物だ。大好きな曲がたくさんあるが、ここはグッと我慢して3曲をどうぞ。
●イン・ザ・ムード(In the Mood、1939年)
ウィンギー・マノン、アンディ・ラゾフ、ジョー・ガーランドが作曲したスウィング・ジャズの楽曲。1939年にグレン・ミラー楽団の演奏によりヒットしたことでも知られ、同楽団の代表曲になっている。
サクソフォーンによるメイン・フレーズ、エンディングのトランペットのフレーズなど、全般にわたる華やかな曲調がビッグバンドの代表的な楽曲として知られている。曲の中ではクライド・ハーリーのトランペットがフィーチャーされている。
アンドリュー・シスターズ、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、ブライアン・セッツァー、ビル・ヘイリー&コメッツ、シカゴもカヴァーしたことでも有名である。また、ザ・ビートルズの楽曲「愛こそはすべて」(1967年)のエンディング部分にこの曲の冒頭がサックスで演奏されている。
●ムーンライト・セレナーデ (Moonlight Serenade、1939年)
1939年にグレン・ミラーにより作曲されたスウィング・ジャズの代表曲のひとつであり、グレン・ミラー楽団のバンドテーマとなっている。
オリジナル・アレンジはクラリネットをフィーチャーしたビッグバンドのスローナンバーであるが、のちに様々なアレンジで多くのバンドによりカバーされている。映画「スウィングガールズ」(2004年公開、写真)の演奏シーンにも登場した。
●茶色の小瓶(Little Brown Jug、1869年)
フィラデルフィア出身の音楽家、ジョセフ・ウィナーが自身のミドルネームであるイーストバーンの名で1869年に発表した楽曲。
当初は酒席の歌として歌われたもので、題名も酒瓶を意味する。禁酒法の時代には酒の登場する他の楽曲同様、新たな人気を獲得した。1939年、グレン・ミラーがスウィング・ジャズのアレンジを加えインストゥルメンタルとして演奏したものが大成功をおさめた。アメリカのビッグバンド時代にも人気を博し、以降ジャズのスタンダード・ナンバーとして知られるようになった。日本では童謡として知られ、小学校の音楽の教科書などにも載っている。数種類の歌詞があるが、酒の歌ではなくなっている。
■ベニー・グッドマン
●レッツ・ダンス(Let's Dance、1934年)
ベニー・グッドマンが50年以上にわたってオープニングテーマとして使用しているジャズスタンダード。原曲は、カール・マリア・フォン・ウェーバー(1826年、39歳で没、画像)のピアノ曲「舞踏への勧誘」(Aufforderung zum Tanz、1819年)。1935年にファニー・ボールドリッジ、グレゴリー・ストーン、ジョセフ・ボニームによって作曲された。
●その手はないよ( Don’t Be That Way、1938年)
ベニー・グッドマンとエドガー・サンプソン が1938年に作曲したジャズの楽曲。ベニー・グッドマン楽団のレパートリーの中でも最も成功した楽曲のひとつであり、最も頻繁に録音されるジャズのスタンダード曲のひとつとなっている。
●シング・シング・シング(Sing, Sing, Sing (With a Swing)、1936年)
今や、京都橘高等学校吹奏楽部の代名詞と言えるナンバーだが、スウィング・ジャズの代表曲の一つとして知られており、ビッグバンドやスウィング演奏家の間でよく演奏されている。日本映画「スウィングガールズ」でも特徴的に取り上げられている。
ジャズ歌手、トランペット奏者のルイ・プリマ(1978年、67歳で没、写真)が作曲した曲で、プリマの率いるバンド「ニューオーリンズ・ギャング」によって最初に録音された。
1938年にベニー・グッドマン楽団がカーネギー・ホールでのコンサートで演じて以来、同楽団の代表曲として知られる。特にフレッチャー・ヘンダーソンが編成を担当した有名なベニー・グッドマンのバージョンは、実はカバーである。
個人的にグレン・ミラーはイン・ザ・ムード、ベニー・グッドマンはレッツ・ダンスが一番好きだ。
前者は、途中で終わるのかなと思ったらまた曲が始まるのがキモで、そのところが大好き。後者は、ウェーバーの名曲「舞踏への勧誘」をアレンジしたものというが、何度聴いてもそれと分からない。オリジナル曲として素晴らしいと思っている。
●スウィングジャズの巨人たち
スウィングジャズには、こんな巨人たちがいる。(生誕順)
バンドリーダーのベニーグッドマン、アーティ・ショーはクラリネット、グレンミラー、トミー・ドーシーはトロンボーン、ルイ・アームストロング、ハリー・ジェイムスはトランペット、デューク・エリントン、カウント・ベイシーはピアノという楽器を演奏していた。
■デューク・エリントン
1930年代から第二次世界大戦後にかけて、「A列車で行こう」や「キャラバン」など、ジャズのスタンダード曲を世に送り出した、デューク・エリントンは、アメリカのジャズ作曲家、編曲家、ピアノ奏者、オーケストラ・リーダー。
「A列車で行こう」 は、1939年にデューク・エリントンが楽団のピアニスト兼作編曲者であったビリー・ストレイホーンに作詞・作曲をオーダーして作られた作品。1941年2月15日にエリントン楽団の演奏でレコードが発売され大ヒットした。以来、エリントン楽団のテーマ曲として広く知られている。エラ・フィッツジェラルドとの競演でも名高い。
「A列車」とは、ニューヨーク市地下鉄ブロード・チャンネル駅に進入する「A列車」の題材となったA系統の列車。正面に"A"の表示が見える。(写真)
この曲の題名と歌詞には、「(ジャズを楽しめる)ハーレムに行くなら、速く行ける "A"看板の電車(すなわち "A" train = 8番街急行)にお乗りなさい」という意味がこめられている。
デューク・エリントン/A列車で行こう(Take the 'A' Train、1939年)
■トミー・ドーシー/ジミー・ドーシー
トミー・ドーシーは、「ザット・センティメンタル・ジェントルマン」と言われ、本人もそれを意識してか、楽団のテーマ音楽が「センチになって」であり、専属の女性コーラスグループを「ザ・センティメンタリスツ」(後のクラーク・シスターズ)と命名していた。
1934年にドーシー兄弟でオーケストラを結成。グレン・ミラーは1934年から1935年までこのバンドにいた。1935年からトミーは自身のバンドを持ち、活動を行う。当時新人だったフランク・シナトラはこのバンドで成長し、成功している。
かつてドーシー兄弟はバンドのことで対立しそれぞれに分かれたが、戦後は1953年に和解し、再び兄弟のバンドを結成したが、1956年に死去。トミー・ドーシーの兄であるジミー・ドーシーも後を追うように亡くなった。
なお、彼らの生涯は、アルフレッド・E・グリーン監督の映画「The Fabulous Dorseys」(ドーシー兄弟物語又はトミー&ジミー・ドーシー物語、1947年)で紹介されたことがある。
トミー・ドーシー/オーパス・ワン(1943年)
■アーティ・ショウ
アーティ・ショウはアメリカ・ニューヨーク出身のジャズ・クラリネット奏者。作曲家としても知られ、自らのバンドを率いた。また、さらにフィクションおよびノンフィクションの著述家としても知られる。
「ジャズ界における最も素晴らしいクラリネット奏者」の一人と広く見なされ、アメリカの1930〜1940年代のポピュラーなビッグバンドのリーダーとして君臨した。1938年、コール・ポーター(1964年、77歳で没、写真)作曲の「ビギン・ザ・ビギン」を編曲、RCAレコードからのリリース盤は大いに成功したシングルとして、この時代を代表する録音であった。
絶えず音楽活動を続けるショウは、クラシックとジャズとを融合しようする「サード・ストリーム(第三の潮流)」とよばれる音楽手法を早くから試みた実践者である。また1954年、45歳で音楽から引退するまで、ビバップに影響された少人数編成によるいくつかのセッションを録音した。
ビギン・ザ・ビギン(Begin the Beguine、1935年)
(Wikipedia参照)