★第267話:デュエットソング【洋楽・後編】男女・男性同士・女性同士の歌 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

 デュエットソングも今回が最終。洋楽で、男女・男性同士・女性同士の歌を紹介。

 

男女デュオ

ナンシー&リー・へ-ゼルウッド
 ナンシー・シナトラ(現在81歳、写真左)は言わずと知れた、ジャズ・ヴォーカル界の大御所、フランク・シナトラ(1998年、82歳で没)の娘だが、彼女も1960年代中期はアメリカで最も人気のあるセクシー・アイドル歌手として活躍し、大ヒットを飛ばしている。
 彼女は、母の名をとってナンシーと名付けられた。元々歌唱力はあったが、当初ヒット曲に恵まれなかった。日本で
「フルーツ路線」と呼ばれていた「レモンのキッス」「イチゴの片思い」などで知られていたが、アメリカでは売れなかった。
 それが、プロデューサーに、
リー・ヘイゼルウッド(2007年、78歳で没、写真右)、アレンジにビリー・ストレンジと人を得て、1966年、「にくい貴方」(These Boots are MadeFor Walkin')が大ヒット。
 そして、ナンシー・シナトラと、リー・ヘイゼルウッドとのデュエット曲も大ヒットした。

 「サマーワイン」はリー・ヘイズルウッドの作曲。もともとは1966年にスージ・ジェーン・ホコムとリー・ヘイズルウッドによって歌われたが、1967年にナンシー・シナトラとリー・ヘイズルウッドによって有名になった。

ナンシー・シナトラ&リー・ヘイゼルウッド/サマー・ワイン(Summer Wine、1967年)

サラ・ブライトマン&ホセ・カレーラス

 自分が彼女の歌をはじめて聴いたのは実は代表曲の「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」(1997年)ではなく、「アヴェ・マリア」(2001年)だった。早速CDを購入し、あの透き通った声に聴き惚れたものである。
 
サラ・ブライトマン(現在61歳、写真左)は、イングランド・ハートフォードシャー州バーカムステッド(地図)出身。

 サラ・ブライトマンは、クラシックとポップスを融合した独自の音楽スタイルは
クラシカル・クロスオーバーを先導する存在として、大きな支持を得て、アメリカにおけるビルボード・チャートのクラシック音楽部門とダンス音楽部門で同時に1位を獲得した唯一の歌手である。
 ところで、今から29年前、
スペインではマドリードに次ぐ第二の都市のカタルーニャ自治州バルセロナ(人口162万人、図)で開催された第25回夏季オリンピック競技大会(1992年)。
 
 かつて1936年の開催予定地にバルセロナが一度立候補しながらもベルリンに敗れ、
ベルリンオリンピックに対抗する形で同時期に人民オリンピックが計画されながらも実施できなかったスタジアムをそのまま用いて開催された。 
 なお人民オリンピックは、ナチス政権下のドイツで準備の進められていたベルリンオリンピックを「人種差別に満ち、五輪の理念に不適」として、バルセロナが対抗してドイツからの亡命者を含む22ヶ国・6000人の参加が予定されていたスポーツ大会だったが、開会目前に
スペイン内乱が勃発のために開催されることはなかったといういわくつきの大会である。 
 1992年のバルセロナオリンピックの閉会式では、スペイン・バルセロナ出身のオペラ歌手・
ホセ・カレーラス(現在74歳、写真)とのデュエットで、大会の公式テーマ曲「アミーゴス・パラ・シエンプレ」(Amigos Para Siempre 、英語:Friends for Life)を歌った。

 この大会では、ホセ・カレーラスや、モンセラート・カバリェをはじめとするスペイン人歌手の他にも多くのアーティストが参画し、近年でもまれに見る芸術性の高い開会式、閉会式と絶賛された。なお、サラ・ブライトマンはオリンピック公式テーマ曲を2度に渡って歌った初めてのアーティストである。2度目はバルセロナ五輪から16年後の2008年、北京五輪での開会式だ。
サラ・ブライトマン&ホセ・カレーラス/バルセロナオリンピックテーマ曲、アミーゴス・パラ・シエンプレ(1992年)

サラ・ブライトマン&アンドレア・ボチェッリ
 元々
タイム・トゥ・セイ・グッバイ(Time To Say Goodbye)は、コン・テ・パルティロ(Con Te Partirò)(君と旅立とう)という曲で、イタリアの盲目のテノール歌手アンドレア・ボチェッリ(現在63歳、写真)が、サンレモ音楽祭(1995年)で歌い4位に入賞したが、この曲を聴いたサラ・ブライトマンがボチェッリにデュエットを申し込み、歌詞の一部とタイトルをイタリア語から英語に変更したもの。

 そして、彼女の友人で、ドイツの国民的英雄でもあるボクサー、ヘンリー・マスケの引退試合(1996年)のリング上のステージで初めて2人によって歌った。その直後の12月に発売されたシングルは大ヒットし、ドイツのヒットチャートで14週連続1位となったという。この曲は全世界で2,500万枚以上を売り上げたとされ、このジャンルのスタンダードになった。 
 その曲名から”別れの曲”として勝手に日本で認識されていた「Time To Say Goodbye」は、実は別れの曲ではなく、愛し合う二人の「一緒に生きて行こう」とする二人の門出の歌だった。 
<歌詞> 
 
一人きりでいるとき 私は水平線を夢見る そして何も言えなくなってしまう 部屋の中は暗い 太陽の光がないから あなたがそばにいないと 太陽も消えたまま 窓から私の心が広がっていく あなたのものになった心が あなたはそんな私に 光を降り注いでくれる あなたが道ばたで見つけた光を タイム・トゥ・セイ・グッバイ 
 今までに見たことも 訪れたこともない場所を 私はこれから あなたとともに航海していく 船に乗って海を越えて もうどこにもなくなってしまった海を越えて イッツ・タイム・トゥ・セイ・グッバイ 

サラ・ブライトマン&アンドレア・ボチェッリ/タイム・トゥ・セイ・グッバイ(1996年)

ピーチズ&ハーブ

 米ビルボードの一般、R&Bの各チャートで1位を獲得した“二冠王バラード”「リユナイテッド(Reunited 邦題:恋の仲直り)」(1979年)で知られる男女デュオ「ピーチズ&ハーブ」。ディスコサウンドの「チーク・タイム」のゆる~い名曲で名を馳せた。
ピーチズ&ハーブ/恋の仲直り(Reunited、1979年)

オリビア・ニュートン=ジョン&クリフ・リチャード
 

 オリビア・ニュートン=ジョン(現在73歳、写真左)は、イギリス生まれ、オーストラリア育ちのポピュラー歌手、実業家。オーストラリア勲章および大英帝国勲章を授章されている。
 クリフ・リチャード(現在81歳、写真右)のバック・コーラスなど下積みの時期がしばらく続いたが、1970年にヴァル・ゲスト監督による『オリビア・ニュートン・ジョンのトゥモロー』で映画主演し、歌も披露。1971年にボブ・ディランがジョージ・ハリスンに提供した曲のカバー「イフ・ノット・フォー・ユー 」がヒットしたのをきっかけにスターの階段をのぼり、可愛らしいルックスとカントリー系の素朴な路線で着実に人気を集めた。1973年頃よりMOR、コンテンポラリー色を強め、1974年のシングル「愛の告白 (I Honestly Love You)」が全米1位を獲得、グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀女性歌唱賞に輝いた。同じく1974年にはユーロビジョン・ソング・コンテストに英国代表として出場し、「Long Live Love」を歌唱して4位を記録した。
 1975年にアメリカに移住した後も
「そよ風の誘惑」などのヒットを連発する。女優としては1978年のミュージカル映画『グリース』ジョン・トラボルタと共演。興行成績は大成功を収め、サントラからも「愛のデュエット」、アカデミー賞歌曲賞候補となった「愛すれど悲し」、「想い出のサマー・ナイツ」が連続ヒットし、押しも押されもせぬ世界的なスターとなる。1980年の映画『ザナドゥ』に主演。興行成績は不発に終わるも、サントラ曲「マジック」ELOとの「ザナドゥ」クリフ・リチャードとのデュエット「恋の予感」(日本ではシングルにならず「春風の誘惑 (Suspended in Time)」がシングル・カット)がヒット。トラボルタと再度共演した『セカンド・チャンス』のサントラ曲「運命のいたずら」「ディスペレイト・タイムス」といったヒットを挟み、アンディ・ギブ「愛は微笑みの中に」など、AOR系のデュエット曲を発表。
 1970年代から1980年代半ばにかけて数多くのヒット曲を放ち、世界的な人気を博した。現在もレコーディング、コンサート、自社ブランドのオーナーなど、多方面で活躍する。

オリビア・ニュートン=ジョン&クリフ・リチャード/恋の予感(Suddenly、1980年)

ラバーン

 ラバーンは、レシアイヴァンの男女デュオで、本国デンマークでは多くのヒットを放った実力派のポップ・デュオ。1986年に「ラヴ・イン・シベリア」が日本でもディスコ・ヒットした。
ラバーン/ラヴ・イン・シベリア(1986年)


男性デュオ
ジャン&ディーン

 ジャン&ディーン は、ジャン・ベリー (2004年、62歳で没、写真左)と、ディーン・トーレンス(現在71歳、写真右)のアメリカ男性デュオ。

 1959年にデビューし、1960年代前半にサーフィン&ホッドロッド・サウンドで人気を博した。1966年にリーダーのジャン・ベリーが自動車事故を起こし脳を損傷、右半身麻痺や言語障害など後遺症が残り、活動停止を余儀なくされた。その後、再起を果たすも活動は低迷した。代表作は『サーフ・シティ』『デッドマンズ・カーブ(邦題:危険なカーヴ)』『パサディナのおばあちゃん』。同時期のサーフ・ミュージックを代表するビーチ・ボーイズと影響を与え合った。ただし、西海岸の若者文化をうまく取り入れた作風や多重録音などジャンの音楽的才能が高く評価される反面、ビーチボーイズのような深みと芸術的な成長に欠けていたという指摘がある。

ジャン&ディーン/サーフ・シティ(Surf City、1963年) 

サイモン&ガーファンクル

 サイモン&ガーファンクルは、主に1960年代に活躍した、ユダヤ系アメリカ人のポール・サイモン(現在80歳、写真左)とアート・ガーファンクル(現在79歳、写真右)によるフォーク・デュオ。1975年に一時的に再結成してヒットを出したこともある。


 1964年にデビューし、1970年に活動を停止するまで、フォーク、フォーク・ロックを代表するデュオとして数々のヒット曲を世に送りだした。そのハーモニーとサウンドは、
シールズ&クロフツイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーら後続のデュオに多大な影響を与えた。以後も折に触れて2人で活動している。1990年にロックの殿堂入りを果たした。
 
サウンド・オブ・サイレンス(The Sound of Silence)は、サイモン&ガーファンクルが1964年に発表した楽曲。1964年のオリジナルレコーディングは商業的に成功せず、直後にバンドは解散となった。1965年、オーバーダビングされたバージョンが1966年にビルボード誌で週間ランキング第1位を獲得。ビルボード誌1966年年間ランキングは第25位。 1967年のアメリカ映画『卒業』では挿入曲となった。

サイモン&ガーファンクル/サウンド・オブ・サイレンス(1964年)

 

女性デュオ

バカラ

 バカラ「誘惑のブギー」は当時、ラジオ局によっては、そのセクシーなイントロのために放送しないところもあったが、西ドイツで8週連続チャートの1位を獲得しただけでなく、オランダ、イギリス、ベルギー、スウェーデン、スイス、イスラエルなどでも1位を獲得し、1.600万枚以上を売り上げ、1977年に最もよく売れた女性デュオということで、ギネスブックにも載ったことがあるという。

バカラ/誘惑のブギー(yes sir I can boogie 、1977年)

 ABBA

 これまでに約4億枚のアルバムセールスを記録。「ダンシング・クイーン」「恋のウォータールー」などのヒットで世界中を熱狂させている、スウェーデンが誇るスーパーグループ、ABBA (アバ) が奇蹟の再結成を果たし、1981年の『ザ・ヴィジターズ』以来40年ぶりとなるニューアルバム『ヴォヤージ』を 11月5日 (金) にリリースすることが決定した。CD2枚組¥3,980(税込み)だという。

 
アグネタ・フォルツコグ(現在71歳、写真左から2番目)ビョルン・ウルヴァース(現在76歳、写真左)ベニー・アンダーソン(現在74歳、写真右)、”フリーダ” ことアンニ=フリッド・リングスタッド(現在75歳、写真右から2番目)という 4人のメンバーが再集結し、人気絶頂期を彷彿とさせる魅力的な歌声と素晴らしいメロディを聴かせてくれる話題の新曲「アイ・スティル・ハヴ・フェイス・イン・ユー」「ドント・シャット・ミー・ダウン」などを収録。今や、ABBAの平均年齢は74歳になった。

ABBA /アイ・スティル・ハヴ・フェイス・イン・ユー( Still Have Faith In You、2021年)

 ところが、スウェーデン初のポップグループABBAはカムバック・アルバムをリリース後、引退するという。ベニーはザ・ガーディアン紙に「ABBAが再結成することはないとは一度も言ったことがないけれど、今回が最後だよ」「おしまいだ。そうじゃないとね」と話し、ビヨルンも「そうだね」と同意したそうだ。
 またABBAは「ABBAヴォヤージ」コンサートも予定している。来年5月27日からロンドンのクイーン・エリザベス・オリンピック・パークに特設された3000人収容のABBAアリーナで開催される同イベントは、ジョージ・ルーカスが創立したインダストリアル・ライト&マジックの850人のチームの協力を得て、数カ月に渡るモーションキャプチャーにより制作されたメンバーのアバターが登場、10人構成の生バンドと共に繰り広げられるバーチャルコンサートとなっている。


 ABBAは4人構成だが、ヴォーカルはアグネッタフリーダのデュオである。これが、世界最高のハーモニーだったと思っている。 

 
 
拙ブログでは、「見よ!ABBAのハーモニーの美しさを」と讃えたことがある。その真骨頂がこの

「スーパー・トゥルーパー」(1980年)だ。
 なお、「スーパー・トゥルーパー」とは、巨大スタジアムで使われる照明器具のこと。『まるでNo.1になった気分』と歌詞にあるように、当時のABBAの絶好調ぶりを象徴する曲である。

<歌詞>
 私の視界を眩しい照明が奪うでしょう けれど 悲しくはならない いつものようには…ね だって 多勢の観客のどこかには あなたがいるわ 私はすべてに疲れ うんざりしていた 昨夜 あなたをグラスゴーから 呼び出したあの時 食べて 寝て 歌う それだけの私だった ショーともなれば もうこれで最後にしてと祈っていたほど だから 考えてもみて あなたがいらしてくれると聞いて 私が どれだけ嬉しかったか 突然 気分も晴れた 違うわよ きっと全然違っているはず 今夜のステージの私…
ABBA/スーパー・トゥルーパー(Super Trouper、1980年)

終わり。(Wikipedia参照)