〇忌野清志郎の自転車愛
拙ブログ・宮本輝「田園発港行き自転車」(4/29)で、忌野清志郎の「自転車ショー歌」を紹介したが、彼は、「キング・オブ・ロック」と呼ばれた、日本を代表するロックミュージシャンだが、一方で「自転車はブルース」というほどロードバイクを愛するサイクリストでもあった。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191201/05/wyxc-2k/60/9b/j/o0275018314655405640.jpg?caw=800)
忌野がサイクリングに目覚めたのは2001年、彼が50歳の時だった。
きっかけは前年暮れの山形での雪崩のニュース。生き埋めになった息子を10キロの雪道を歩いて、自力で助け出したおじいさんの話を聞いた清志郎は「いざというときに自分の子どもを助けられる体力を持たねば」と考え、鹿児島に住む友人の所まで歩く計画を立てた。
しかし、徒歩だとつい電車に乗ってしまうこともあるため、思いついたのが自転車。
同年4月の誕生日にレーシングタイプの自転車を入手し、半年間トレーニング。9月には東京から鹿児島までの10日間の旅に出た。全走行距離は実に1,422キロ。50歳になるロック界のカリスマのロングツーリングに周囲はビックリした。サイクリングの魅力に取りつかれ、愛車を「相棒」と呼び、ツーリングや大会だけでなく仕事の長距離移動にも使うようになった。
到着時間が読めず、どの辺を走っているかもわからないため、仕事場で待つ付き人がプレッシャーを感じる場面もあったという。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191201/05/wyxc-2k/5b/d5/j/o0223022614655405641.jpg?caw=800)
翌年には自転車で転倒、鎖骨骨折の重傷を負うが、自転車熱が冷めることはなかった。また、その後無事に戻ってきたが、2005年にはそのオレンジ号が盗難の被害に遭ったこともあるがそれにメゲルこともなかった。
〇忌野清志郎と恩師
■5月2日、天声人語の記事
5月2日の朝日新聞「天声人語」に忌野清志郎に関する記事が載っていた。題して「ぼくの好きな先生」。
彼は2009年5月2日、喉頭がんが左腸骨に転移して、癌性リンパ管症のため死去した。58歳だった。記事掲載当日はちょうど没後10年。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191201/05/wyxc-2k/d6/ff/j/o0265019014655405643.jpg?caw=800)
天声人語の出足はこうだ。
「十八になる私の子供は内向的でハキハキしません。ギターのプロになるのだと申します。どうしたらよいのでしょう」。
50年前、本紙の人生相談の欄に投書が載った。相談者はのちにロックシンガーとなる高校生、忌野清志郎さんの母である。
「何年か好きなことをやらせてみましょう」。息子の将来を案じる母をそう説得した。
清志郎さんの代表曲の一つ「ぼくの好きな先生」(1972年)のモデルになった人だ…。
記事が掲載された後、SNS上ではファンからのコメントが多数寄せられたそうだ。
「私にとって、『僕の好きな先生』みたいな存在が清志郎さんでした」、「これからもずっと忘れません」、「清志郎さんはもういない おとなはかんたんにくじけちゃいけない」など。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191201/05/wyxc-2k/44/cb/j/o0259019414655405645.jpg?caw=800)
![音符](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/086.png)
![音符](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/086.png)
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20191201/05/wyxc-2k/45/0b/p/o1277045914655405649.png?caw=800)
苦しいとき、弱っているとき、悲しい時、いつも清志郎さんが助けてくれて、寄り添ってくれた。CDやレコード、DVDだけでなくその存在をより近くで感じたい。
10年経った今もこうした人が後を絶えない。大人になっても、子どもができても、シワができても、まだまだ彼が好きで、いてくれなければ困る――何から何まで清志郎さんがわかっていてくれる。そんな気がして思いを寄せてしまう人が多いようだ。
■「ぼくの好きな先生」秘話
これも朝日新聞だが、10年前の、清志郎「先生のこと歌に」… 「ぼくの好きな先生」秘話(2009/5/5)から。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20191201/05/wyxc-2k/6c/50/j/o1600120014655405652.jpg?caw=800)
同級生の斎藤園子さんによると、校内では物静かだった。小柄できゃしゃ。マッシュルームカットでひょうひょうと廊下を歩いた。
「勉強が嫌いだから絵描きになった」という先生は、職員室が嫌いで、美術準備室でいつも一人でたばこを吸っていた。
後輩の芝田勝美さんは、部員でもない清志郎さんがショッキングピンクに染め上げた白衣を着て、放課後の美術室で黙々と絵筆を動かしていたのを覚えている。「本当に小林先生を慕っていました」
高校を卒業した1970年にプロデビュー。2年後、「ぼくの好きな先生」が入った初アルバムを携えて美術室を訪れた。「先生のことを歌にしたんだ。迷惑でしたか」。先生は「照れくさかったけれど、やっぱりうれしかった」。
ステージでは、派手な衣装やメークに身を包んだ。でも同級生の岡田重子さんは「普段は静かな人。あのお化粧は照れ隠しでしているんだなと思っていた」。清志郎さんの本名は栗原清志。先生や級友はずっと「栗原くん」と呼び続けてきた。
10年ほど前から、小林先生を慕う卒業生が開くOB展に清志郎さんも出品するようになった。2006年にがんの闘病生活に入っても出品は続いた…。
「学校の先生」(2017/11/29)を投稿したことがある。
父も、義父も小学校の教師だった。大学時代、初めて九州を一人旅したとき、旅先で出会った彼女は中学校の教師になり、一度彼女が勤務している熊本市まで会いに行ったことがあるが、勇気がなくその日に帰ったことがその後の二人の人生を決めてしまった。
生徒たちと一緒の写真も送ってくれたが、いい先生だったことだろう。自分のいとこの奥さんも学校の先生だった。「たら話」になるが、周りには教師が多く、自分も教師になる可能性もあった。
ところが、尊敬する学校の先生に巡り合ったことがない。これも「たら話」になるが、そんな先生に出会ってたらその後の人生も変わっていただろう。
「♪劣等生のこのぼくにすてきな話をしてくれた」と語る忌野清志郎はいい先生に出会った。
RCサクセション/ぼくの好きな先生(1972年)
続く。