コニー・フランシス | 中高年の中高年による中高年のための音楽

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主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

SONG TO SOULOne piece of eternity ~永遠の一曲~)
 
 一昨日(4/28)、TV番組表を見ていて、BS-TBSの『SONG TO SOUL「ヴァケイション」コニーフランシス』という番組に目が留まった。
 
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 「SONG TO SOUL」は副題 を「One piece of eternity ~永遠の一曲~」といい、毎週日曜日の23時00分から23時54分まで、ヒットした名曲が生まれた源流や現場を、時空を遡るように紹介する音楽番組だという。
 2007年12月から始まっているそうだが、全く知らなかった。
 日曜日は次の日が週初めということもあり、遅くまでテレビを見るのは避けていたので気が付かなかったのだろう。
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 幸い、明日は珍しく仕事がお休み。
 いまやレジェンドともいえるコニー・フランシス(現在81歳、写真)本人を訪ね、「ヴァケイション」との出会いや彼女の音楽人生について、明らかにしていくという内容と聞いて、テレビに見入った。

大歌手コニー・フランシス誕生の時代背景
 
 1950年代後半から60年代前半は、アメリカン・ポップスの全盛時代。
 1950年代前半はこんな女性歌手が活躍していた。
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(青色の網かけは歌手としての活動期間)
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(写真は左より上図の氏名順)
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 50年代後半は、彼女たちの人気が落ちて来て、ブレンダ・リー(現在74歳、写真左)が活躍、ダスティ・スプリングフィールド(1999年、59歳で没、写真右)の人気が出る手前だった。
 音楽評論家の中村とうよう(2011年、79歳で没)は、「SPからLPに切り替わる直前の時期が20世紀ポピュラー音楽の黄金期だった」と述べている。
 40年代に揺らいだアメリカのメジャー・レコード会社の地位が再び安定を取り戻し、キャピトル、マーキュリーなど新興メジャーも参入しての業界支配の新態勢が整った結果でもあった。
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 60年代前半は、ジョージ・ルーカス監督の青春映画「アメリカン・グラフィティ」(1973年、画像)のロックンロール全盛の時代。
 
 ケネディ大統領暗殺事件(1963年)直前、泥沼のベトナム戦争に突入する前のアメリカの「最後の楽しい時代」 だった。
コニー・フランシスのデビュー時代
 
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 コニー・フランシス(写真)は、アメリカ・ニュージャージー州ニュー・アーク出身、イタリア系。4歳のときからアコーディオンに親しみ、1日4時間も練習していたコニーは、11歳の頃からショーに出演し、16歳の1955年に4曲レコーディングした内の一曲、「Freddy」で歌手デビューしたが、2年間ヒット曲は出なかった。それも、レコード会社・MGMの社長の甥がたまたまFreddyという名前だったので発売出来たというものだった。
 
Who's Sorry Now?(1957年)
 それまで9作のシングル盤が発売されたもののなかなかヒットに恵まれず、後が無くなった1957年。
 次の10作目でヒットが出なければ契約を打ち切るとレコード会社から伝えられ、窮地に立たされたコニーに、彼女の父が、最後かもしれないなら、自分の大好きな曲を歌ってほしいと彼女に頼んだことでレコーディングをする運びとなった。
 それが「Who's Sorry Now?」(1923年の曲)だった。

 コニーははじめ、「30年以上も前の古臭い曲は嫌だ」と歌うことを渋ったが、結果的には大ヒットとなり、歌手を続けられることになる。この曲が無ければ、後年の大スター“コニー・フランシス”も無かった。まさに、彼女の人生を変えた曲となった。

 また、彼女は後に、「Who's Sorry Now? 以前の曲は全て、今回は誰風に歌おうと考えて歌っていたが、この曲では誰の真似でもなく自然に歌えた」と話している。彼女自身が自分の歌い方を見つけた、大きな転換点となる曲でもあった。
 彼女は「泣き節」と呼ばれる独特の歌い方で一世を風靡した。

チャート入りパスポートを持ったシンガー
 
 この曲が全米4位を取り、自身初のミリオンセラーになり大ヒットしてからは、1960年代前半にかけてヒット曲を連発。 「チャート入りパスポートを持ったシンガー」と呼ばれ、彼女の曲は毎週のようにチャートに登場するようになった。
 また、それまではロックン・ロール歌手は男性に限られていたのに風穴を開けた歌手として、「チャートのピークとなった初の女性ロックン・ロール歌手」とも言われた。
 「EVERYBODY’S SOMEBODY’S FOOL 」(1960年)が初の全米1位で、その後、「My Heart Has a Mind of Its Own」、「泣かせないでね(Don't Break the Heart That Loves You)」(1962年)が全米1位となっている。

 「間抜けなキューピッド(Stupid Cupid)」(1958年全米14位)、「マイ・ハピネス (My Happiness)」(1958年全米2位)、「カラーに口紅(Lipstick On Your Collar)」(1959年全米5位)、「アモング・マイ・スーベニル(Among My Souvenirs)」(1959年全米7位)、「ボーイ・ハント(Where The Boys Are)」(1961年全米4位)、「大人になりたい(Too Many Rules)」(1961年全米72位)、「ヴァケイション(Vacation)」(1962年全米9位)、「渚のデート(Follow The Boys)」(1963年全米17位)などがヒットし、ビルボード・ヒット100に53曲もの歌が掲載された音楽史上、最も活躍した女性シンガーの1人である。


外国語で歌う歌
 
 コニーは英語以外の言葉で歌った曲が15か国語に及び、日本語で歌った曲だけでも30曲を超えるという。
 父から「アメリカは戦勝国なので他国から妬まれている。海外でも親しまれるよう、外国語で歌うこと」と言われたことに感謝している。
 それで、イタリア語は彼女の母国語なのでもちろんだが、ドイツ語と日本語の曲が多い理由だそうだ。
 そして、「『日本語は難しいでしょう』とよく言われるが、発音がイタリア語に近く、日本語が一番楽だった」とインタビューに答えていた。
 本人が日本語で歌った曲は、「ヴァケイション」、「可愛いベイビー」、「大人になりたい」、「思い出の冬休み」、「渚のデート」、「ハートでキッス」、「ロリポップ・リップス」、「ボーイ・ハント」、「ミスター・ツイスター」、「夢のデイト」、「ユア・アナザー・ラブ」、「ダンケ・シェーン」など。
 「コニー・フランシス日本語ヴァージョン・ヒッツ」(2008年、画像)というCDが発売されている。
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 その中では日本だけで発売してヒットした曲も。
可愛いベイビー(Pretty Little Baby)は、アメリカではシングル発売されておらず、日本独自のヒット曲で、1962年に中尾ミエ、森山加代子、沢リリ子、後藤久美子の4社競作でカバー。中でも中尾ミエ盤が一番売れた。*次はコニー・フランシスの英語盤です。

夢のデイト(Someone Else's Boy)、ロリポップ・リップス(Lollipop Lips)も日本独自のヒット曲。

大人になりたい(Too Many Rules)は、ビルボード最高72位だったが、日本では伊東ゆかり、後藤久美子などの歌で大ヒットした。

 それがヒットするのは、コニーには分かっていた。彼女の父も厳しく、日本の校則の厳しさも知っていたので、「too many Rules(規則だらけ)」、「too many goods(堅物だらけ)」という歌詞は、日本では絶対当たると思っていたそうだ。


カバーポップス
 
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 日本ではカバーポップスと呼ばれ、コニーの曲のほとんどは、カバーポップス時代の寵児・漣健児(さざなみけんじ、2005年、74歳で没、写真)の訳詞によりヒットした。
 彼のオフィシャルサイトの一節「漣健児イロいろアリーナ」に、コニー・フランシス「可愛いベイビー」録音エピソードが載っている。
 中尾ミエさんが当時の渡辺プロの秘蔵っ子で、社長の晋さんから『絶対彼女に合う曲を探してほしい』と頼まれているところに、アメリカの出版社から私に、コニーのためのアダプテーションを依頼されたのがこの曲です。そのデモ・テープを晋さんに聞かせたところ、ミエちゃんのデビュー曲になりました。そしてこの曲のチャーミング・ポイントは、コニーの「ハイ ハイ」というセリフがミエちゃんの魅力とダブリ、ミエちゃんのヒットに繋がりました。
 「可愛いベビー」は中尾ミエさんがオリジナルと思っている人も多いでしょう。原曲は”ハイハイ”とは歌っていないんですよね。あそこを”ハイハイ”にしたからヒットしたと言う指摘も有ります。やはり、日本語としての自然さというのは意識されていたんでしょうね。
 これは、コニー・フランシスのNYでのレコーディングに立ち会っていたんですが、ちょっとしたハプニングが起こりました。コニーはローマ字で書かれた楽譜を見ながらレコーディングをしていたのですけれども『頭の可愛いベイビーに続くコーラスを“ハイハイ”にしてもOKか』と聞いてきたのです。語学が堪能な彼女は、日頃、日本人が何かにつけて「ハイ」と言うのを聞いて思いついたようです。もちろん、私は「ハイ・ハイ」じゃなく「Yes」と・・・(笑)
 ”愛しているからかしーら”というフレーズの”からかしーら”という音節。日本語を8ビートで解体して歌ったはしりの例とされてますが。宇多田ヒカルが「オートマチック」で”英語的日本語”と言われたことを、40年も前にやっていることになりますが。
 私は百人一首が好きで、短歌や芭蕉の俳句のリズムを頭に浮かべ、言葉がテンポに乗って、譜割りが上手にいくようにしました。

 コニーは、1974年11月8日、ウエストベリー音楽フェアに合わせてニューヨーク市内でホテルに滞在中、突如客室内に不法侵入した黒人の男から強姦被害を受け、犯人は未だに逮捕されていないという災難にあったが、このテレビのインタビューでは 、過去に大変な体験をし、80歳を超えたにもかかわらず、かくしゃくとしていた。
 いつまでもお元気でいて欲しい。