民主党政権はなぜ崩壊したか【その2】 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

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 東京都議選の結果は、自民党の歴史的大敗に終わった。それでも、こんな不祥事続きで二ケタの票がとれただけでもラッキーと、自民党の首脳陣は喜ぶべきだ。

 そうならなかったのは、民進党のせいである。民進党が無党派層の受け皿の一つになっていればもっと自民党の得票は減り、壊滅的な打撃を受けていたはずだ。

 マスコミは自民党対都民ファーストの対立構図ばかりを報道して、民進党は完全に埋没してしまった。もちろん、こうなったのは同党の責任だ。

 民進党が公明党共産党の後塵を拝するなんて信じられない。議席を失う危険すらあったのに、それがたった5議席しか取れなかったのに、ゼロ議席を避けられたなどと喜んでいるというのだからお話にならない。これではもう政権を目指す政党とは言えない。

 「改革」という言葉は、ほとんどの政党が使っている。自民党も古くから「改革」を標榜しているし、民主党も2009年の政権奪取時には「改革政党」をアピールした。しかし、その民主党もあっという間に利権政党に堕し、今や、民進党を改革政党だと信じる有権者は激減している。それが民進党の敗因だ。

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 過去の都議会議員選挙の推移(図)によると、何度も「~旋風」が起こり、大きな波を経験してきたことが分かる。

 しかし、熱狂の後には落胆と大きな反動が待っている。そのほとんどの原因が選挙でチルドレンと呼ばれる「政治の素人」を多く生んだせいだ。

 歴史は繰り返される。都民ファーストもまた同じ轍を踏むのだろうか。
民主党政権の誕生

 民進党の前身である民主党が政権を取った2009年は、総選挙の2か月前に都議会議員選挙があり、そのとき同党は、改選前の34議席を20議席も上回る54議席大勝だった。 

 当時自民党政権は、安倍福田2代連続の「政権投げ出し」から、次の麻生内閣では、身内からも「麻生おろし」があり、3人合わせて3年間短命内閣となった。

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 戦後自民党が長期に渡って政権党だった積年の弊は、もう抜き差しならない状態となり政権交代の機運は最高潮に達した。

 2009年の第45回衆院選では、民主旋風を受けた野党第一党・民主党が圧勝して初めて非自民を中心とする民主党政権(鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣・野田佳彦内閣)が誕生し、一時期の例外を除いて長期政権与党であった自民党はそれまで連立政権を組んでいた与党第二党・公明党とともに本格的に下野することになった。

 これが日本政治史で国政選挙で自民党以外の日本の政党が民意による衆議院議員総選挙を得て「政権交代」した初めての例となる。

 同年の新語・流行語大賞「政権交代」が選ばれ、鳩山由紀夫内閣総理大臣が受賞した。(写真は鳩山内閣)

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 2009年7月21日、衆議院が解散。結果、絶対安定多数を超える308議席を確保して、民主党は政権交代をついに実現。308議席は一つの党が獲得した議席数としては戦後最多であった(写真)

 また比例区の得票も2,984万4,799票を獲得し、日本の選挙史上で政党名の得票としては過去最高を記録し、民主党・鳩山政権の誕生は、国民の熱狂で迎えられた。

 政権奪取当初は、脱官僚・政治主導地域主権新しい公共コンクリートから人へ国民の生活が第一、などの大きな夢や理念があった。

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 鳩山由紀夫首相(現在70歳、写真)はさらに「友愛」という自分自身の理念もそれに付加していた。これらが政権交代の大義名分だったのである。
鳩山政権の崩壊

 ところが、鳩山政権はわずか9カ月しか持たなかった。

普天間基地移設問題

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 「最低でも県外」と言った鳩山首相の基地の県外移設が見送られることに反発した福島瑞穂少子化担当大臣(社民党党首、現在61歳、写真)は合意書への署名を拒否、大臣を罷免された。2010年5月30日、社民党は連立離脱を決定し、民主党内で倒閣運動が顕在化しはじめたことが挙げられる。

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 このことについて、鳩山首相の根回し力や胆力のなさは問題だったとしても、いまだに基地問題は解決していない。

 これまで、我々は沖縄に人たちの犠牲の上に暮らしてきた。ようやく、彼らに恩返しするときがやってきたというのにどこも基地を受け入れようと手を挙げない。産廃の集積地を拒否している構図と一緒だ。鳩山首相よりその方がずっと問題だったと思う。

鳩山・小沢両氏に関する金銭疑惑

 もう1つは鳩山・小沢両氏に関する金銭疑惑で支持率が下落したことである。

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 「政治とカネ」と言われた金銭的疑惑に関しては、鳩山氏本人の実母からの資金提供疑惑は結局は嫌疑不十分で不起訴となったが、小沢一郎氏(現在75歳、写真)の土地購入問題が内閣の崩壊を招いた。

 これも、日本の政治家のトップである首相と、それを支える幹事長の金にまつわるスキャンダルが大きな問題になっていることに不自然さを感じる。彼らはちょっと前まで野党だった。「利権」は、政権党に集中する。ましてや実質的に半世紀以上政権を担っていた。ほじくれば想像もできないほどの膿がでるはずだ。それが、野党のトップばかりの調査とは。前政権の問題が追求されない日本は不思議な国である。この裏に何かあると思って間違いは無い。

自主独立戦略により、日米関係緊張化

 鳩山氏や小沢氏が掲げた「自主独立戦略」は、アメリカを慌てさせたことだろう。小沢氏の「将来的に日本に駐留する米軍は第7艦隊で十分」という発言も彼らの逆鱗に触れた。

 冤罪ともいえる小沢氏を裁判に追い込んだのも、アメリカの影がちらつく。

 鳩山内閣が民主党政権崩壊の元凶ではない。

 政界を去った鳩山氏に責任を負わせるのは、民主党にとっては都合がいいかもしれないが、それは間違いだ。

 民主党の政権は2009年(平成21年)9月16日~2012年(平成24年)1月13日。この期間を「失われた3年間」と揶揄されることもある。

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 鳩山内閣の後を継いだ菅直人野田佳彦に民主党崩壊のほとんどの責任があり、殊にそのA級戦犯ともいうべき野田佳彦氏(現在60歳、写真)がまだ平気で議員でいること自体がおかしいのに、今や民進党幹事長とは笑止千万である。
 民主党崩壊の原因は次の通り。

マニュフェストの多くが実現されなかったこと

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 その実現性については不安があったが、政権交代は時間の問題だったので、「次の内閣」マニュフェストについても議論を尽くし、そのときに備えているものと国民は思っていた。

 実際、立ち上がりは早かった。組閣からまだ10日ほどしか経っていないのに、鳩山内閣はマニフェストで約束したことを着実に実現すべく、これまでの自民党内閣では見られない意思決定や行動を、矢継ぎ早に打ち出している。

 例えば、内閣主導の意思決定については、これまでの閣議は法案を署名するだけの形式的なものだったが、議事進行を事務の官房副長官から政務の官房副長官に交代させ、その場で閣僚同士の意見交換も行った。また閣僚委員会を始動させ、重要案件については閣僚同士で議論した上で、閣議決定するという意思決定経路とした。

 また内閣官房に菅副総理を置く国家戦略室を設置し、国家戦略局に向けた準備を進めると共に、内閣府に鳩山総理を議長、仙谷担当大臣を副議長とした行政刷新会議を置くことも決定した。 

 しかし、これらの全ては生煮えで終わった。当時の政治家の能力では政策実行部隊である官僚の不満を増長させるだけで、彼らのサボタージュに遭った。国家戦略局と共に内閣の両輪とみなされていた行政刷新会議は法案審議が遅れ、結局廃案となった。

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高速道路の無料化(右図の6番目)

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 マニフェストの中でも「高速道路の無料化」はとても魅力的な政策だった。アウトバーン(写真)だって無料だし、高速道路を作ったとき、将来の無料化を約束していたのに一向に実現されないことに国民の不満は鬱積していた。

 しかし、交通量が増えることや、料金所の仕事がなくなり失業者を生むという問題がある。バス・鉄道や、フェリーのニーズが減ることも予想される。これらの検討が不足し、生煮えの政策であることが分かり挫折した。

 小泉政権が行った「道路公団の民営化」も実は形だけのものだったし、ガソリン代が高騰した時期で政策実現のタイミングも良かったのに残念だった。

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介護職支援策(右図の9番目)

 そして、「介護職支援策」。マニュフェストでは「介護労働者の賃金を月額4万円引き上げる」とある。

 介護の職場は3Kで、人手不足が顕著なところ。本当にこれは実現して欲しいと思っていた。

 ところが、どこかで議論したのかも知れないが、一向に実現する気配がない。とてもがっかりした。

 民主党のマニュフェストは、「大企業の利益を優先」から、「生活者を優先」に明らかに政策がシフトしていることを感じさせた。当たり前のことだったのかもしれないが、自民党政権では考えられないものだった。

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 今やテレビで引っ張りだこの伊藤惇夫(現在68歳、写真)という評論家が「マニュフェストは60点で合格、マニュフェストに縛られる必要はない」と言っていたが、今から思うと、当初は新政権も国民も熱病にうなされ、気負いすぎていたのかも知れない。

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政治主導戦略の失敗

 この政権の最大の目的は、政・官・財の癒着構造を破壊することだった。

 右の政権構想を見ると、これが安倍政権に引き継がれ、民主党政権では失敗した政策が巧みに使われ、政治主導の権力構造が出来上がったことが分かる。

 脱官僚については、2009年9月18日に内閣として「政・官の在り方」を申し合わせ、大臣や副大臣といった政治家が政府としての「政策の立案・調整・決定」の責任者であり、これを「補佐する」官僚を「指揮監督する」として、両者の上下関係を明確化した。

 これを踏まえ、官僚が政党側の政治家に接触することを制限すると共に、事務次官などの定例記者会見を禁止し、更に明治時代から連綿と続いてきた事務次官会議も廃止された。いずれも制度面の表面的な変化に過ぎないが、自民党内閣では考えられなかったことばかりであり、国民は政権交代を実感した。

 「官」が長年慣行として行ってきた「省庁による天下り斡旋」、「官僚OBの独立行政法人(独法)、特殊法人への再就職」も廃止した。

 そんなムダ金を寄せ集めれば多額の「埋蔵金」が見つかるはずと誰しも思っていた。

 ところが、それで「事業仕分け」を行ったのに官僚の厚い壁は崩せなかった。そして、強制力も無かったことから、結局パフォーマンスだけに終わってしまったのだ。

 当時、官僚の中にも現在の体制はおかしいと思う良識派は多数いたはずである。

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 しかし、2010年10月15日の参議院予算委員会で、当時経産省に在籍していた古賀茂明(現在61歳、写真左)がみんなの党の参考人招致を受けて出席し、政府の天下り対策や公務員制度改革を批判した。それに対し、内閣官房長官・仙谷由人(現在71歳、写真右が「恫喝」し、「上司として一言…こういうやり方ははなはだ彼の将来を傷つけると思います」と発言したのにもがっかりした。

 官僚を「諸悪の根源」のように言われると、中で働く人にとって面白いはずがない。大多数は真面目に働いている人たちである。神経を逆なでしないで、改革に協力してもらう体制を作ることが大切だった。
政治とカネの問題

 いわゆる「小沢問題」であるが、今、安倍政権で起きている諸問題が取り上げられないというのに、何故小沢氏に対してだけは検察これほどまでに執着したのだろうか。しかも、起訴できないと分かると、検察審議会なる奥の手までを使ってくる執拗さだった。 

 国民は、まさか正義の味方であるはずの検察庁裁判所、そして大手マスコミがこんな謀略を図るわけがない。三権分立が機能していて、万一それが「冤罪」であれば、国会議員はこぞって立ち上がるはずだ。その固定概念が間違いで、彼らは「グル」だったのだ。

 それどころか、身内であるはずの民主党も冷たかった。

 「無罪」を勝ち取ったというのに、彼らは自分たちはその不徳を詫びず、「推定有罪」と言わんばかりの態度だった。

 これで、「小沢悪人説」が国民の間に浸透した。小沢氏の悪人顔や、インタビューにも簡単に応じないのもイメージが悪く、敵を増やした要因だった。

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 オランダの著名なジャーナリストで「誰が小沢一郎を殺すのか?」(角川書店)(写真)の著者、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏(現在76歳)はこんなことを言っている。

 「一人の政治家がこのような長期にわたる中傷キャンペーンの対象となるのは世界的に例のないことである。 どうしてか? 彼が資金に何か汚いことをしたのか? もちろん違う。詳細を見ると馬鹿馬鹿しい限りである。実に信じられない。大新聞の一面を見ると、あんなちっぽけな嫌疑であたかも彼が国家反逆罪でも行ったかのように書き立てている。完全に馬鹿げている。
  
 
彼を国民が受け入れないのではなく、高級官僚や新聞が彼を潰そうとしているのである。彼らの既得権益が侵されると恐れているのである」

菅政権の失敗

 この小沢問題は菅政権でも大きな影響をもたらした。

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 まず、菅直人(現在70歳、写真)は鳩山政権が理想主義的すぎたとみなして現実主義を掲げ、路線を大きく変更した。

 マニフェストに反して、消費増税TPPを推進しようとし、2010年9月の民主党代表選では小沢氏に勝利したが、それを通じて小沢グループとの対立は決定的になった。

 さらに、菅民主党は2011年2月には検察審査会による2度の「起訴相当」議決の後で、刑事事件の判決確定までの間、党員資格停止処分としたのである。

 しかも、同年11月12日に小沢氏の東京高裁における無罪判決が出て、その直後に突如、衆議院が解散され、さらにその直後に無罪が確定した。

 小沢氏が無罪ということは、菅首相の小沢排除の判断は道義的に決定的に間違っていたことになる。当時、プロ集団たる検察は起訴できないと判断していたのだから、検察審査会が強制起訴したからといって、時の首相たる者はあくまでも刑事法の原則に従って「推定無罪」とみなして行動すべきだった。

 民主党政権にとって、この民主党代表選とその後の小沢排除が最大の分岐点だった。
野田政権の失敗
 
 菅政権の次に成立した野田政権は、菅政権以上に現実主義的路線を強め、財務省に依拠して消費税増税を目指し、経産省に依拠して、TPP参加を目指し、外務省に依拠して対米随従路線をとった。

 消費税増税を強引に決定した結果、ついに小沢グループが脱党することになり、民主党は分裂した。対米随従路線の結果、輸送機オスプレイ配備でもアメリカに異を唱えることは一切なく、沖縄では米兵の事件が立て続けに起こって、沖縄県知事も含め沖縄の人びとの感情は決定的に悪化した。そして、総選挙においてTPP参加を公約に入れようとして、鳩山元首相は引退し、脱党者が相次いで民主党は空中分解し始めたのである。

 この辺が自民党との大きな違いであり、党としての成熟度の差だった。

 自民党のすごいところは、ふだん仲が悪くていがみ合っている議員たちが、いざ議決の段階になると、とたんに一枚岩の結束を示す。この腰の強さがあるからこそ、仲の悪さも「活発な議論」に見え、国民から支持される。

 対して民主党は、仲間のミスをフォローするどころか笑い、結束すべき局面で足を引っ張り合った。そういう部分を国民に見えるところでやったのでは、国民の支持を取りつけるのは難しい。政権交代の主役だった鳩山・小沢両氏は民主党を去り、民主党は総選挙で大敗した。


 かくして、理念なき政治に堕落し「改革の党」の看板を外した民主党に魅力を感じる国民は少数派となった。

 次は主な政党の変遷年表にしたものだ。

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 それまでは自民党から分かれたのがほとんどだったのが、民主党が分裂して以来、民主党から分かれた政党が多くなった。

 それで、小数政党が乱立し、益々野党は力を無くして行く。

 都議選で都民ファーストが躍進したことにより、「受け皿」さえあれば再び自民党に代わって政権を奪取することが可能であることがよく分かった。

 その都民ファーストは勢いに乗って国政に進出するうわさは絶えないが、都政と国政は違う。

 今彼らが結びついているのは選挙に勝つための「寄らば大樹」という考え方と、「情報公開」とか卑近な政策だけで、それ以外は烏合の衆と言ってもいい。

 小池都知事は、今、国家観を隠しているが、まぎれもなく安倍首相に近い考え方である。

 国政には自民党と対峙する、「国民の生活が第一」の庶民を大切にする党が立ち上がって欲しい。

 果たして民進党はそんな党に脱皮できるだろうか。今は正念場だ。大ピンチだが、大チャンスでもある。