日本の美女 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

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 世界の三大美女といえば、クレオパトラ楊貴妃ヘレ―ネ(日本では小野小町)であるが、GUのCM、ゆるキレ スカート&パンツ「ゆるキレって何?」篇香椎由宇(クレオパトラ)・波瑠(楊貴妃)・山本美月(ヘレ―ネ)が世界三大美女を演じている。
 
 なお、ヘレ―ネとは、ギリシャ神話の絶世の美女で、ゼウスレダとの娘。スパルタ王妃となったが,トロイの王子パリスが恋して略奪したことからトロイ戦争が起こったとされる架空の人物。
 


 日本の女性の美人像は変遷を遂げてきた。
 
イメージ 1 平安時代には、小野小町(写真)に代表されるように、肌理(きめ)の細かい色白の肌、ふっくらした頬、長くしなやかな黒髪が典型的な美人の条件として尊ばれた。
 
 江戸時代以来、日本では色白できめ細かい肌、細面、小ぶりな富士額、涼しい目元、鼻筋が通り、豊かな黒髪が美人の典型とされた。浮世絵で見られる小さな目で描かれた女性は、当時の理想的な美人を様式化した作品である。
 
 こうした美意識は、明治時代から大正時代に至るまで日本の美人像の基調となった。井原西鶴の作品には、低い鼻を高くしてほしいと神社で無理な願いことをする、との記述があり、当時鼻の高さを好んだ傾向が伺える。また朝鮮通信使の記録には、「沿道の女性の肌はお白いをせずとも白く、若い女性の笑い声は小鳥のようである」と国王に報告している。
 
 明治時代に入ると欧化主義とそれに伴う洋装化の動きがおこり、大正時代関東大震災後からパーマネントや断髪、口紅を唇全体に塗るなど、従来の美意識と相容れないような欧米式の美容が広まった。とくに、戦後の日本では、西洋映画等の影響を受けて、芸能界を中心に欧米人に近い顔立ちを尊ぶ美意識が普及した。
 
 今日では、雑誌やマスメディアを通じて、化粧品メイクに関する情報が広く共有され、美白二重まぶたなど、ファッション産業と密接に結びついた審美観が普及している。
 
 その反面、容姿の美醜が従来以上に女性の幸福感を左右するようになった。こうした傾向は、摂食障害美容整形への過度の依存など身体的・精神的健康をむしばむ新たな問題を生じている。(Wikipedia 参照)
 
イメージ 3 美人画の巨匠、上村松園(1949年、74歳で没、写真)の代表作、「序の舞」(1936年、左画像)。
 
イメージ 4「なにものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志」を、静かなうちに凛として気品のある仕舞「序の舞」を通して描いている。
 
 絵のモデルは彼女の息子である上村松篁の妻(上村淳之の母)の未婚時代の姿である。
 
 これは、後に宮尾登美子によって書かれた松園の伝記の題名にもなった。(写真右)
イメージ 8イメージ 9 近代日本の美人画家として、上村松園鏑木清方(「1972年、93歳で没、写真左)、伊東深水(1972年、74歳で没、写真右)が著名で、その美人画はそれぞれ切手されている。
 (日本画家一覧参照)
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 大正三美人というのがある。
 
1.九条武子(1928年、40歳で没)
 旧姓・大谷武子。1887年、京都西本願寺・大谷光尊の二女として生まれる。1909年、男爵・九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られた。

 1928年、関東大震災復興事業での奔走の無理がたたり敗血症発症、40歳の若さで念仏のうちに往生した。宗門では、武子の命日を如月忌(きさらぎき)と呼んでいる。
 
2.原白蓮(1967年、81歳で没)

 筑紫の女王と呼ばれた。北小路資武と結婚したがほどなく離婚。九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚したが、宮崎龍介との駆け落ちした白蓮事件で話題をふりまく。1923年、宮崎と結婚し、情熱的歌人として知られた。菊池寛 の小説『真珠夫人』や映画『麗人』のモデルとなり、2014年連続テレビ小説の「花子とアン」葉山蓮子として描かれる。

3.江木欣々(1930年、43歳で没)

 新橋の芸者で、法律学者・江木衷と結婚し、社交界で名を知られた。江木と死別した後の1930年、異父弟・早川徳次の家で縊死。
 
4.林きむ子(1967年、83歳で没、写真右)を江木欣々の代わりに数えられる場合もある。
 
 九条武子柳原白蓮が楚々とした日本美人なのに対して彫の深い面立ちで背も高く豊満な美人。また華族でなく芝の料亭の娘だった。その美貌に一目ぼれした富豪の代議士と結婚して6人の子どもの子育てのかたわら、英和女学校でフランス語、女子美術で油絵、神学校で神学と、3つの学校に海老茶袴に自転車で通い、高い教養を身につけた。
 
 夫が汚職事件にからんで政治生命を絶たれ、事業も傾き家も手放してやがて夫は亡くなる。その逆境にも耐え、作品を出版して原稿料を稼ぎ、美容液を考案して売り出すなど持てる力を発揮して乗り切る。やがて年下の詩人と結婚して世の非難を受けるがくじけず、幼いころから修練をつんできた舞踊で身を立て、多彩な活動を続けた。
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 こんな美人もいた。
 
1.末弘ヒロ子(1963年、69歳で没)
 
 九州・小倉市長・末弘直方の令嬢で、学習院中等科3年生の末弘ヒロ子(当時14歳)は、1908年(明治41年)、アメリカのヘラルド・トリビューン社から依頼された日本初の全国規模ミスコンとなった時事新報社主催「日本美人写真募集(良家の淑女写真コンクール)」において第一位となり「日本のミスコン優勝者第一号」とされた。
 
 しかし、このことが学校で問題となった。当時の学習院長・乃木稀典は粋な計らいをした。末弘ヒロ子を中途退学させて、乃木将軍夫妻の仲人で、野津道貫元帥の長男・野津鎮之助と結婚させ、伯爵夫人となった。
 
2.陸奥亮子(1900年、43歳で没)
 
 陸奥亮子は、没落士族の旗本・金田蔀の長女として江戸に生まれる。明治の初めに東京新橋柏屋の芸妓となり、小鈴(小兼)の名で通る。板垣退助に愛された小清とならんで新橋の双美人と呼ばれ、新橋で一、二を争う美貌の名妓だったという。
 
 その後、明治時代の政治家で外交官でもあった伯爵・陸奥宗光の妻となり、1888年、駐米公使となった宗光とともに渡米する。その美貌、個人的魅力、話術によって第一等の貴婦人と謳われ「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称された。
 
3.楠木高子(1938年、86歳で没)
 
イメージ 11 ドイツ人医師のシーボルト(1866年、70歳で没)(写真)は、日本に近代西洋医学を伝え、日本の近代化やヨーロッパでの日本文化の紹介に貢献すると共にヨーロッパ人でありながら、日本の文化などをこよなく愛した人物だった。
 
 その娘の「オランダおいね」こと、楠本イネ(1903年、76歳で没)が生まれ、イネは石井宗謙との間に楠本高子を生む。
 
イメージ 12 「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」などのSF漫画家として知られる、松本零士(77歳)(写真)は、小学1年だった昭和19年から20年の終戦まで、愛媛県大洲市の母の実家に疎開していた。
 
イメージ 13イメージ 14 後に理想の女性としてやスターシア(写真左)や、メーテル(写真右)など、切れ長の目で顎の細い女性を描き続けたが、なぜそういう女性を描くのか、自分でもはっきりとは分からなかったという。
 
 大洲市に暮らす同級生から、明治維新前後 に撮影されたとみられる1枚の写真を見せら れた。そこに写っていたのが、メーテル、スターシアによく似た細面の若い女性(楠本高子)だった。
 松本さんは「自分が描いてきた女性と気づき、大変な衝撃を受け写真に見入ってしまった」そうだ。
 
4.唐人お吉(1890年、48歳で没)
 
 本名は斎藤きちといい、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれ、14歳で伊豆国下田の芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。
 
イメージ 15 1857年(安政4年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリス(1878年、73歳で没、写真)が、玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。
 
 困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

 当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。
 
 当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。最後は悲惨な人生を送り、1890年(明治23年)稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。(Wikipedia参照)
 
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ビング・クロスビー/夢見る人(Beautifull Dreamer(1862年作)
 

 美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ 星の光と露の雫があなたを待っている 粗暴な俗世の喧騒は 月の光に優しく照らされ、すべては過ぎ去った 我が歌の女王、美しき夢見る人よ あなたへの愛の調べを聴いておくれ わずらわしい浮世の苦悩も消え去るだろう 美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ 美しき夢見る人よ、私のために目覚めておくれ

ロイ・オービソン/Oh Pretty Woman(1964年)
 

朝やけの少女(The Most Beautifull Girl)(1973年)