オリンピックの歴史【夏季大会その1】 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

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主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

第1回アテネ大会(1986年)
 
 前作で1896年の第1回アテネ大会(ギリシャ)の開催が紆余曲折だったことに触れたが、内容も国際大会とは名ばかりの代物だったようだ。
 
 資金難も手伝って金メダルは存在しなかった。優勝者には銀メダルとオリーブの冠、二位は銅メダルと月桂冠。三位には何も与えられなかった。
 
 参加選手の募集は大学の掲示板や新聞記事を通じて行われた。その結果、参加14ヶ国、245人のうち多くはアテネや欧州に来ていた旅行者やアテネ在住者で、五輪のために選手団を仕立てたのはごく一部であった。
 
 例えばテニスで二冠を勝ちとったのは、たまたまアテネに遊びに来ていた英国の旅行者だったという。
 
 実施された競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目。ヨットも予定されていたが、悪天候のため中止となった。
 
イメージ 1イメージ 2 最終日に行われたのがマラソン
 
 ギリシャの故事にちなんで設定されたマラトンからパンアテナイ競技場までの約40キロのコースでのマラソンには、25人の男性が競った。
 
 「故事」とは紀元前490年、マラトンの丘(右写真)でペルシャの大軍と戦い勝利をおさめたアテナ軍の伝令士フィディピディスが、伝令としてアテネの城門まで走り、戦の勝利を伝えるとそのまま息絶えたという伝説で、その9月12日は「マラソンの日」と定められている。


 大会の参加選手の多くがギリシャ出身だったが、数少ない優勝で落胆の色が濃かったところ、最後に地元のスピリドン・ルイス
2時間5850の記録で優勝を果たし、一躍ギリシャのヒーローとなった。


女性の闘い
 
 当時オリンピックは「男のため」のスポーツと見られ、アテネ大会では女性の参加が拒まれた。
 
 女性が参加できるようになったのは1900年の2回パリ大会(フランス)らだが、16競技60種目が行われ、19ヶ国から参加1066人のうち女性はわずか5ヶ国・12人だったそうだ。
 
 長い女の戦いが始まるのはこれからだった。
 
 ところで、戦前の日本人の女性選手ではこの二人を抜きにしては語れない。
 
 まずは、人見絹枝1931年、24歳で没)。
 
 100m200m、走り幅跳びの元世界記録保持者。
 
イメージ 4 1928年の9回アムステルダム大会オランダ)で当時、100メートルの世界記録保持者であった人見。期待された100メートルでは準決勝で思わぬ敗退。急きょ800mへの出場を決め、決勝はドイツのリナ・ラトケと接戦(写真)となり、21762着。日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
 
 しかし、日本ではまだ「女性が短いズボンを履いて素肌を出して、男の様に走るなどもってのほか」のような考え方が強い時代で、世間の目は冷たかった。
 
 それでも人見は、自分の事より、未来の後輩達・女子陸上選手達を守ろうと立ち向かった。その後、数々の大会に出場する傍ら、選手の育成や公演を行い、また、若い選手達を連れて海外遠征を行なうため、懸命に働いた。
 
 そして、1931年、疲労がたまって体調を崩し、肺炎となってこの世を去った。まだ24歳の若さ。その日は奇しくも、日本人女性初のオリンピックメダリストとなった、ちょうど3年後の82日だった。

 そして、前畑(兵藤)秀子1995年、80歳で没)。
 
イメージ 3 1932年の10ロサンゼルス大会(アメリカ)200m平泳ぎに出場し、銀メダルを獲得したが、この後は家庭の事情もあり引退も考えたが、現役続行を決意。1933年には200m平泳ぎの世界新記録を樹立。
 
 3年後の1936年、第11回ベルリン大会(ドイツ)200m平泳ぎに出場し、ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、1秒差で見事勝利。日本人女性としてオリンピック史上初の金メダルを獲得した。
 
 この試合をラジオ中継で実況したNHKアナウンサー河西三省は、興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!20回以上も絶叫し、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させた。(Wikipedia参照)

 


政治とオリンピック
 
 1000年以上続いた古代オリンピックやクーベルタン男爵の理想と裏腹に、近代オリンピックは戦争や冷戦などの政治の影響をまともに受けてきた。
 
 第1次世界大戦1916年大会は開催中止となったが、1936年第11回ベルリン大会「ヒトラーの五輪」と呼ばれ、ナチス政権下における格好の政治のブロパガンダの舞台となった。
 
 この大会の最大の欺瞞は、ユダヤ人や黒人などに対する人種差別政策を隠し通したことだ。
 
 彼らはすでに強制収容所が存在したにも関わらず、報道規制と事実隠避で虚像を世界に見せることに成功した。
 

 ベルリン大会で増幅された政権のイメージは、第2次世界大戦の各国の対応を遅らせる原因の一つになった。


 その後、第二次世界大戦でオリンピックは、幻の東京、ロンドン大会と2度も流会してしまう。
 
 戦争が終結し、1948年、第14回ロンドン大会でオリンピックが再開されたが、敗戦国のドイツ・日本は招待されなかった。
 
 1952年の第15回ヘルシンキ大会(フィンランド)よりソ連が初参加し、オリンピックは、名実と共に「世界の大会」とよばれ、同時に東西冷戦を象徴する場となり、アメリカとソ連のメダル争いは、話題となった。
 
 そして、オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになる。
 
 1968年の第19回メキシコシティー大会(メキシコ)では、黒人差別を訴える場と化し、1972年の第20回ミュンヘン大会(西ドイツ)では、アラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きた
 
 1976年の第21回モントリオール大会(カナダ)になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対して、アフリカ諸国22ヶ国がボイコットを行った。
 
 そして、1980年の第22回モスクワ大会(ソ連)では、ソ連アフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行ったが、結果的に英仏など西欧諸国を含む80ヶ国・地域、5283人が参加した。(中国は不参加)
 
 次の映像に出ているジンギスカンは、1979年のユーロビジョン・ソング・コンテストに応募するためにメンバーが集められ、結成したグループ。「目指せモスクワ」は、ソ連のモスクワがモチーフの曲。これが縁で1980年のモスクワ・オリンピックに招待された。 
 
ジンギスカン/めざせモスクワ(1979年)
 


 1984年、第23回ロサンゼルス大会(アメリカ)では、今度は東ヨーロッパ諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはルーマニアだけだった。このとき140ヶ国・地域、6802人が参加した。
 
イメージ 5 オリンピックの音楽といえば、ジョン・ウィリアムズ(81歳)写真)
 
 1984年ロス大会の、あの名曲《オリンピック ・ファンファーレとテーマ》
 
 すでに、映画『スター・ウォーズ』の音楽などで知られていたジョン・ウィリアムズが満を持して放った、華やかな祝典音楽だ。 
 
 ロス大会では、開会式のオープニングで、ジェット噴射機を背負った人間が、突然 どこかから飛んできて、スタジアムの真ん中に着地したのにも驚いたが、数十台のグランドピアノが登場し、やがて大オーケストラとともに奏でられたこのテーマ曲も、強烈に印象に残った。
 
イメージ 6 そして、柔道・無差別級で、山下泰裕(56歳)(写真)2回戦で負った右足のケガをおして優勝を遂げる
 
 優勝シーンも感動的だったが、決勝戦の相手、エジプトのモハメド・ラシュワンのフェアプレーにも大きな拍手が送られたものだ
 


 続く。参考文献:結城和香子著「オリンピック物語」(2004年、中公新書)