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小川村塾ブログ

小・中学生・高校生のための学習塾 [小川村塾]
〒417-0842 静岡県富士市三新田9-20TEL 0545-32-0662   
生徒一人ひとりに合わせて「分かりやすい」を心がけて講習を行っています。

卵がなかなか上手く割れない。

「台の平面上に卵をぶつけて割れば良い。

そうすれば殻が入らないから。」

と言われた。

今までは角に卵をぶつけて割っていた。

 

平面上で卵を割ることを聞いてから平面上で割るようにする。

それでも、なかなか上手く卵が割れない。

角で割っていた時と同様、上手く割れない。

 

本当に平面上で割った方がいいのか調べてみる。

角度が鋭いところで割ると殻が内側に入るから平面上で割る。

つまり180度のところで割る方が良い。

と書いてあった。

 

平面上で割るのが正しいことになる。

でも、なかなか上手く割れない。

 

そこで

「どうしたらよいのか」

と聞くと

「どちらで割ってもよいのではないか。

その辺は臨機応変に。」

という返事。

 

臨機応変にということなので、

それからは角で卵を割ることにした。

 

でも、今回は卵を角で割って、殻がぐしゃっとなって中身が床の上に落ちた。

それも2回。

 

プロだったなら、こんな時は臨機応変に解決策を見つけるのだろう。

今までの経験からこうしたらよい。

というのが浮かぶのだろう。

 

プロは臨機応変力が違う。

長年の経験が物をいう。

ドラマなどでもいつもは遊んでいるような上司が難題時に対応力を発揮してみんなを感心させる。

 

臨機応変ができるのは物事を熟知していなければならない。

どこでは手を抜いてよくて、どこは確実にしっかりやらなければならない。

ということが分かっている。

そうして初めて臨機応変に物事に対処できる。

 

 

 

2023/07/19

 

ウグイスが昨日(7月13日)もホーホケキョと鳴いていた。

今までに7月になってウグイスの鳴き声を聞いたことがない。

例年、5月の終わりか、6月の初めで鳴き声は聞こえなくなる。

それなのに今年は7月の中旬になっても鳴いている。

 

ウグイスは俳句でも春の季語になっている。

今年は少し鳴き始めが遅いとは思った。

それでも5月くらいからは鳴いていた。

それが7月の今でも鳴いている。

ホーホケキョと天から落ちてくるような勢いで聞こえてくる。

電話をすると相手の電話口にもウグイスの鳴き声が聞こえるらしい。

 

調べてみるとウグイスは一年中鳴いているようだ。

ただ、ホーホケキョと鳴くのは早春から初夏らしい。

 

今までに7月になってウグイスの鳴き声を聞いたことはない。

今年が初めての出来事になる。

いつもと違うことが起こっている。

 

いつもと違うことが起こる。

すると、人は何か良くないことが起きるのではないだろうか。

と考えてしまう。

凶兆という。

 

それに対して吉兆という言葉がある。

良いことが起こる前ぶれ。

 

物事は人の考え方によって、良くもなり悪くもなる。

どうせなら良く思った方がいい。

 

確かに良く思った方がいいということは誰もが思う。

でも、実際には悪いことが起こる。

良く思っても悪いことが起こる。

だから良いことなど思うことなんてできない。

 

そう言われるかもしれない。

でも、だからこそ良いことを思う。

それが必要になってくる。

 

人間は悪いことが起こるだろうと考えるようになっている。

これは太古の時代からそうだ。

いや、太古の時代にそう考えた者が生き残った。

 

生き残った者は凶兆を考えるDNAを受け継いでいる。

だから、いつもと違うことが起こる。

すると、何か悪いことが起こるのでは、

と考えるのは自然の成り行き。

 

でも、何も根拠がなくて、いつもと違うからというだけならば、やはり良いように考えたい。

吉兆と思いたい。

悪いことが起きるとしても、それまでは気持ちが前向きになる。

 

 

 

2023/07/14

 

 

「継続は力なり」とは、よく言ったものだ。

なかなか継続するということはできない。

継続して物事を行うことができる。

それだけで才能だ。

 

毎日、ジョギングをする。

犬の散歩をする。

日記をつける。

 

継続はむずかしい。

 

毎日、これだけはする。

というようなことを決めて実行する。

始めの頃は頑張るけれど、ちょっと何かのことで実行できなくなる。

すると、それが終わりの始まり。

そんなことを繰り返す。

継続できるということはそれだけで才能だ。

 

毎日、学校へ行ったり、仕事をしたり。

確かに継続していることはある。

それ以外で継続をしようと思って続けられたことがあっただろうか。

 

少しの間ならできたかもしれないけれど。

なかなか継続というのはむずかしい。

「三日坊主」という言葉がある。

そんな言葉がついて回る。

 

継続させるためには強制が必要だと思う。

強制されるから、だからするしかない。

そんな気持ちで強制的にする。

その方が続く。

その結果、継続されることになる。

 

継続されるとしめたもの。

毎日、実行しなければ気持ちが悪くなる。

強制が自発に変わる。

 

継続させるためには、やはり強制が必要ということになる。

1日の中で時刻を決めてその時刻に行う。

決めておかないと持続できない。

1日の中で、できる時刻にやればよい。

そんな気持ちでは持続できない。

 

まずは時刻の強制で継続を目指す。

 

 

 

2023/07/12

 

 

勉強ができる子、できない子と区別される。

どこでその区別がされるのか。

やはりテストの点が良い子ができる子と言われる。

テストでよい点を取ることができる=できる子。

とすると、できる子には共通点がある。

 

例えば、算数・数学では基本の計算問題など面倒くさがらず、黙々と計算をする。

この計算はもうできるから、計算問題はしなくてもよい。

計算は面倒くさい。

などとは言わない。

 

そんなことを言う子はできる子の中には入れない。

できる子は黙々と計算問題をする。

だから計算も速くなり確実になる。

 

計算問題をすることが学力アップにつながることを体感しているのだろう。

基本を確実にマスターしておくことが大切だということ。

このことが意識はしていなくても分かっているのだろう。

 

基本を大切にする。

その意識が向上につながっていく。

 

基本をしっかり理解すること。

基本を大切にすること。

これが大きな土台を作っていく。

 

基本がしっかりしていること。

これは樹木に例えれば幹が太く、しっかりした樹木ということ。

幹がしっかりしていれば、そこから出た枝が途中で何かあって枯れてしまったとしても、また新しい枝が出てくるだろう。

幹が丈夫ならば、その脇から新しい枝が伸びていくだろう。

幹が細く弱弱しければ、そうは思わない。

 

幹は太くて丈夫な方がよい。

樹木を育てるならば、幹を太く丈夫に育てなければならない。

 

幹は基本だ。

幹を太く丈夫にするためには基本をしっかりマスターしなければならない。

基本のマスターが土台を丈夫な大きいものにする。

 

そんなことを意識しておく必要がある。

 

 

 

2023/07/07

 

 

物事には基本があり、基本のマスターが最終的到達への近道になる。

それならば、勉強についてはどうだろうか。

 

勉強も当然そうだ。

算数(数学)、国語、英語、理科、社会など、やはり基本のマスターが必要不可欠になる。

たとえば、算数(数学)の基本は計算になる。

計算ができなければ、次に進めない。

今は電卓があるので、それも必要ないと言えばそうなるかもしれないが。

 

計算のマスターは結果だけではない。

過程が今までの基本の積み重ねになっている。

わり算の筆算では九九、かけ算、たし算、ひき算などすべての計算が含まれている。

それぞれの学年の基本のマスターの積み重ねと言える。

 

中学3年生の数学から考えてみる。

2次方程式は因数分解そして1次方程式ができないと解けない。

連立方程式も1次方程式ができないと解けない。

1次方程式は正負の数の四則計算ができないと解けない。

そのように考えていくと小学生の分数、小数などの計算、九九、大きな数の加減。

最終的には小学1年生のたし算、ひき算が出発点になる。

そこから各学年の基本のマスターを積み上げて次の基本のマスターにつながる。

 

基本のマスターには共通点がある。

その時々に覚える内容自体は難易度が高いわけではない。

マスターするまでに時間がかかる。

しかも同じことを何度も繰り返すことによって基本はマスターできるものが多い。

 

この繰り返しを辛く感じるかどうか。

そこで挫折をしてしまうか、しないか。

これが次のステップに大きく左右する。

 

基本をマスターすることは、往々にして同じことの繰り返しにより体得していくことが多い。

なぜ、こんなことをしなければならない。

なぜ、こんな同じことを何回も繰り返す。

めんどうくさい。

そんなことを思うと続けられなくなる。

そして挫折。

 

そこで挫折しないで続けられた者が基本をマスターできる。

それを繰り返していくとマスターするための繰り返しの回数も減ってくる。

基本をマスターしやすくなる。

 

後になってみればその基本のマスターが大事だということが分かる。

けれども、その時点では分からない。

 

 

 

2023/06/13

 

 

包丁の持ち方にも基本があるということを知って驚いた。

自分の握りやすい持ち方で包丁は持ち、野菜など切れば良いものと思っていた。

 

基本の持ち方で包丁を持ち、野菜を切ってみた。

今までと違うのでちょっと切りにくい。

でも、基本は大切だ。

 

今までの持ち方は自己流。

やはり基本の持ち方に変える必要がある。

基本は今までの先人の行いの蓄積で成り立っている。

基本をマスターすることが先へ進む一番の近道になる。

これはすべてのことに共通している。

 

物事には全て基本がある。

スポーツでも基本がしっかりしていないと強くなれない。

まずは基本のマスターから始まる。

 

漫画でヘタウマというのが流行ったことがある。

基本の絵が上手く描けて、初めて人から見て下手そうな絵が描ける。

下手な絵ではない。

下手そうな絵である。

 

ピカソの絵を

「幼稚園児が描いた絵のようだ。」

と言った人がいる。

ピカソにとって、それは誉め言葉のようだ。

 

ピカソは

「子供のように絵を描けるようになるのに一生かかった。」

と言っている。

 

ピカソの少年時代のデッサンや肖像画を見ると驚く。

ピカソ15歳の時に描いた母親のパステル画を見ると、後のピカソの絵は想像できない。

パステル画から見られる写実の技術的な巧みさはもう円熟さが見られるくらいだ。

やはり、ピカソは天才だということが分かる。

 

ピカソは少年時代に、もう写実的な絵では大成していた。

次なるステップに進んだ結果が現代知られているピカソの絵になっていく。

デッサン力があり基本がしっかりしているということが次へのステップにつながっている。

そのことが、よく分かる。

 

天才も基本の上に成り立っている。

 

 

 

2023/06/28

 

 

結果は「0」か「100」か、で判断する。

つまり、「できたか」、「できないか」で判断する。

途中の「30」、「70」は関係ない。

「0」か「100」か、だ。

結果はそれで判断される。

 

成長はそういうわけにはいかない。

成長は過程を見る。

過程を重視する。

 

「0」の時よりも「30」になっている。

「50」になっている。

「70」になっている。

それが重要だ。

成長はそれを見る。

 

「100」でないから「0」と同じ。

成長はそういうわけにはいかない。

 

でも、往々にして、「70」も「50」も「30」も「0」と等しく見る。

過程を見る余裕などない。

成長など気にもしない。

 

木を切るのに、のこぎりを1000回引いた。

それでも木は切れなかった。

だから引くのをやめた。

 

同じように木を切るのにのこぎりを100回引いた。

当然 切れていない。

だから、引くのをやめた。

 

結果はどちらも木を切ることはできていない。

だから結果は同じ。

 

次の日にまた木を切りに来た。

のこぎりを1000回引いた木はのこぎりを1回引くと木が切れた。

2日間の結果では、のこぎりを100回引いたものと同じとは言えなくなる。

 

でも1日の結果で見れば、両方とも木は切れていない。

結果は同じ。

結果が全て という言葉もある。

 

2023/06/04

 

一部の生徒で書く字に変化がみられる。

 

「ぐうすう」を「ぐーすー」と書く。

「う」を「―」に変えて書く。

確かに流れるように速く書けるかもしれない。

いつの間にか、このように書くことが普通になっている。

 

すると、「う」は完全に「―」に頭の中では置きかわってしまう。

言語が変わる。

 

一筆書きのように流れるように書くためには自然と筆圧は弱くなる。

さらさらと滑らかに書くのであればペンより筆がよい。

でもペンを使っている。

 

ペンでも抵抗が少なく、流れるように書くためには筆圧は弱い方がよい。

必然的にペンを持つ力は弱くなる。

ペンをつまむような、力を入れない持ち方になる。

ますます字は流れる線のようになっていく。

 

それと対照的な例もある。

数字の1や6を書くときの縦線を書く速度がびっくりするくらい速すぎる。

なぜか知らないけれど、短距離走の選手のように、息を止めて起点から終点まで一気に書く。

 

ちょっと表現できないが、見ていてびっくりするような勢いで縦線を書く。

その勢いのまま他の線も書くので、字が安定されず何を書いているのか分からないような字になってしまう。

 

当然、0と6は書いた本人も識別できないくらいになってしまう。

スマホ、パソコンを使うから自分で字を書くことなど、これからはなくなっていく。

だから、字なんて書かなくてもよい。

 

自分が分かれば、漢字が間違っていても、「う」が「―」でもよい。

相手が読むような文はパソコンで、スマホで作成するから心配ない。

 

確かにそうかもしれない。

そんな考えになって当然だ。

でも最近の字の乱れはそれだけのことが要因なのだろうか。

 

 

 

 

やはり目について気になってしまう字について。

 

最近、字の乱雑さが拡散している感じがする。

多く目にするようになってきた。

 

字は上手、下手に関係なくきれいに書く。

それができなくても人が読める字を書く。

それは最低限必要なことだと思う。

 

しかし、最近の傾向は人が読める字を書くどころか、自分でも読めない字を書く。

これは男子の多くに見られる。

 

一筆書きで書くような字になっている。

昔のように、かな文字ならば一筆書きでよいだろう。

漢字があるので、そういうわけにはいかない。

 

今は言葉がどんどん省略されて使われるようになっている。

書き言葉も話し言葉化されているようだ。

 

漢字などそれと分かればちょっとくらいパーツが変わっていてもよい。

書きやすければよい。

そんな意識の延長上に字が雑で一筆書き状態がある。

 

時代は字を省略化する方向に進んでいるのかもしれない。

書くのが難しい漢字は省略化され、簡単になり、最後は棒線の縦線、横線だけで表す。

なんてことも現実離れした話ではなくなるかもしれない。

 

 

2023/05/16

 

 

コーヒーを飲む時にスプーンのことをさじと言ったら、家人に大笑いされた。

「今時、さじなんて言う人はいない。」

「スプーンでしょ。」

自分も別にいつもはスプーンと言っている。

たまたま、さじという言葉が出てきただけだ。

 

それなのに

「いつの時代の人。」

とまで言われた。

 

料理の番組などで、小さじ2杯、大さじ1杯とか言っている。

小スプーン2杯、大スプーン1杯とは言っていない。

さじという言葉を使っている。

 

それなのに

「いつの時代の人。」

とは言われない。

 

別にさじという言葉を使ってもいいだろう。

いろいろな人がいる。

世界にはいろいろな人がいて、いろいろな言葉を使って、いろいろな習慣がある。

みんな同じではない。

 

ひょっとすると異星人、未来からまたは過去から来た人がいるかもしれない。

ドラマの見すぎと言われるかもしれないが。

否定はできない。

分からないから。

分からないことは「ない」と否定はできない。

 

自分と違うから、おかしいと思うのは傲慢だ。

自分と違うことが当たり前だと思わなければならない。

 

いろいろな人がいると思えば、いろいろな考えがあることが分かる。

そうなると正しいことは何か分からなくなる。

 

どれも正しいと言えるし、どれも間違っていると言える。

見方によって正しさは変わる。

そのことは頭に入れておく必要がある。