高校生に言われた。
「今度、学校の課題で夏目漱石のこころを読むんだけれど、面白い?」
その答えは次の通り。
「家には、こころの文庫本が2冊ある。」
学生の時に読もうとして、挫折した。
社会人になって、読まなければいけないだろう、と思って挫折した。
2回目の挑戦の時に、家に1回目の挑戦の時に購入した「こころ」が、あるのも忘れていて、また本を購入した。
だから、家に「こころ」が2冊ある。
それも、どちらも挫折の記録として置かれている。
このことでは、家人には信じられないと異邦人を見るかのような目で見られる。
「こころを途中で止めるなんて、信じられない。あんなに面白い物語を最後まで読まないなんて、信じられない」
この話題になると、いつも上から目線で言われる。
「こころ」って、そんなに面白いのかな。
確かに、文庫本でいちばん売れている本のようだ。
多くの人が読もうとした本なのだろう。
ひょっとして、多くの人が挫折もした本なのかもしれない。
夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫などは、一応読んでおきたい。
でも、読みたい気持ちはあるんだけれど、どれも挫折の記憶がよみがえる。
昔と違うんだ、とは思うのだけれど、読みたい気持ちは膨らむのだけれど、実際は他の本に手がいってしまう。
高校生の時に、夏目漱石の本を全巻、読んだ子がいた。
その時、自分は狐狸庵先生(遠藤周作)や星新一に夢中だった。
今と違って、ネット販売なんてない時代なので、書店に顔を出しては、狐狸庵先生や星新一の本を漁っていた。
文学作品とはほど遠かった。
だから、クラスメイトから夏目漱石を全部読んだと、聞いた時は驚きもしたが、尊敬もした。
自分は、中学生の時に、「坊ちゃん」「吾輩は猫である」をかじった程度だった。
やはり、高校生は夏目漱石の「こころ」だよ。
自分で勝手に思い込み、読もうとしたけれど、ほんの数ページで本は閉じられたままになった。
今、心の中でぐつぐつと三度目の挑戦への気持ちが湧いてきたので、今度は読めば最後のページまでいくと思っている。
その前に、三島由紀夫の「金閣寺」を読もうかな。
浅田次郎の「蒼穹の昴」はもう一度、読みなおしたい。
でも、北方謙三の「陽令伝」15巻もこれで完結だから、先に読まなきゃ。
あっ、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が7、8巻残ってる。
読みたい本が数多くある。本を読むのは楽しい。
でも、本を読む時間は限られている。
寝る前に本を読むのは、その限られた時間のひとつだ。
最近はページを閉じる前に、まぶたが閉じられている。