何日か前に梅雨入りした上海は、このところ朝から結構な激しさで雨が降っております。
速報が入りました。と、同時に我が家あたりも空が暗くなり、雨が結構降っております。雷も鳴り始めました。
湿度が高く、蒸し暑い本日
ウチのベランダは、こんな感じ
となれば、普段から家篭りの婆は、堂々と家篭り決定です。
本日もテレビ三昧の予感しかないです。
先日(6月17日)のNHK「バタフライエフェクト」で、香港の100年の変遷を取り上げていました。
貧しく産業もなかった香港が、期限付き英国統治下に置かれ自由(放任)資本主義により、世界から注目される一大都市に成り上がった成果。
1997年中国への返還、50年は約束されたはずの一国二制度の揺らぎなど、短い期間に様々な顔を見せる香港のカオスを伝える内容でした。
私が居た1980年代は、香港の良き時代だったことを実感しています。
私が一番印象に残る香港は、当時の啓徳空港の近くで開かれている青空市場(違法の市場でした)で買い物をしていると、頭上を掠めるように飛行機が通過する光景です。
ちょうど、このように車輪も出ている飛行機を真下から見上げていました。
世界一難しい空港の周辺は、建物の高さ制限があり、私の住居も12階建てという、香港にあっては低い建物でした。
テレビを写したため、わかりにくいですが、青いのが飛行機です。
あの飛行機の下あたりで買い物をしていて、飛行機が通るたび、耳が壊れそうな爆音の中、市場のおばちゃんに言われる値段を聞き取れず、しばし買い物中断ということを繰り返していました。
市場があったのは、九龍城(カオルンセン)と呼ばれていた魔の巣窟「九龍城塞」のすぐ近くという治安の悪い場所でした。
期限付き英国統治下にあった時代、中国からの難民が大量に流れ込みました。
流れ込んだ先が九龍城塞でした。
ここは中国の土地ということでした。
私の住まいがあったのが、界限街(ガイハンガイ)というところでした。
英国統治下の香港の中で、新界とそこに近い九龍半島の一部地域は中国租借地でした。
そのボーダーラインが、界限街というわけです。
私の住まいは、そのボーダーの中国側にありました。
私が住んでいた時代は貧富の差が大きく、大富豪はCentral地区の高台に豪邸を持ち、百万ドルの夜景を独り占め
一方、アバディーンには、まだ水上生活者がいる時代でした。こんなには、いなかったけど。
その後、政府が水上生活者ゼロ目指し、公共住宅に移動させました。
貧富の差が激しくなることで、スリ、ひったくり、物乞いが横行していた時代でもあり、地下鉄の出口に物乞いが並んで、コップに小銭を入れて床を叩く姿は決して珍しいものではなく、当たり前の光景でした。
目の前でスリと戦う女子を見ましたし、私もカオスの香港目撃者であります。
1989年にはソウルに住んでいたので、あの事件のことはニュースで知るだけでしたが、事件のことは国内では「なかったもの」とされ、香港に行けば詳細記録が残っているという妙な現象があったようです。つまり、本国の若者は事実を知らず、香港に行って初めて事実を知ったということでした。
2014年からの深圳暮らしの時には、毎週のように香港に買い物に出ていましたから、アンブレラは、実際に見ております。
若者の民主化闘争は、日本の安保闘争を彷彿とさせます。
(今の日本にも、あの若者のエネルギーが欲しいものだわ、、と、話が逸れる婆の悪い癖。)
子供の頃に、中国から難民として香港に入ったジミー・ライは、1981年にジョルダーノ創業します(私もジョルダーノを街中で見ていました。買ったことないけど。笑)
後に、彼は苹果日報(りんご日報)を発刊します。
が、弾圧により2021年に廃刊となりました。
ワタクシ、現在は上海に在住しておりますゆえ、奥歯にものが挟まった表現しかできません。ホントは、言いたいこといっぱいあるけど、この辺りにしておきます。
深圳にいた頃、香港に出入りするのは自由でしたが、香港で撮影したワケあり写真は深圳湾にて入境の際には、念のため削除しており、残っていません。
他国で生活するということは、そういうことなのです。悪しからず。
あの私の好きだったキラキラ香港、懐かしいなぁ、などと、朝から複雑な心境の婆でございます。
いつもながら、ダラダラとした長文にお付き合い、ありがとうございました