注意上海情報ございません。高齢婆の思い出話ですので、ご用とお急ぎの方はスルーなさってくださいませ。お願い


先日、バリバリ70代に突入したピアリンでございます。歳バレしたので、怖いものなし爆笑

1964年の東京オリンピックの時は、小学5年生でした。学校から5年生全員で、駒沢国立競技場にサッカー観戦に行きました。当時の国名ユーゴスラビアとハンガリーの試合でした。(後に知ることになるのですが、オシムさんがユーゴスラビア代表選手で出ていたのですね。)
オリンピックを生で体験させたいという国の計らいだったようで、ウチの小学校に配られた無料配布チケットです。(6年生は陸上競技だったので、代々木まで行ったようです。ちなみに5、6年生だけに与えられたチャンスでした。なんとラッキーなことでしょうキラキラ

長女の私にはテレビを見せてくれない父でしたが、オリンピックだけは、テレビを観ることを許してくれました。
開会式で、世界の国々の名前を知り、国旗に目を奪われ、地図帳で確認しながら見入ったものです。

オリンピックの終わりを名残り惜しく思いつつ観た閉会式では、アフリカのザンビアが独立した歴史的瞬間を見て感動しました。ザンビア🇿🇲国旗を掲げた選手が競技場を一周したことは、子供ながらに衝撃のビッグニュースとして鮮明に記憶しております。

1968年府中刑務所前で起こった3億円事件の時は、中学3年生でした。中学1年の終わりに、我が家は府中に引っ越したばかりでしたから、クラスメイトに私が犯人か!?と、揶揄われたものです。

1969年1月の東大安田講堂事件高校1年生でした。なぜ学生があそこまで闘争をするのか、かなり興味深く思ったものです。

1970年高校3年の夏に、叔父が私たち姉妹も含め子供たちを大阪万博に連れていってくれました。当時の私には、外国はとても遠い存在で、一生行くことなどないと思っていましたから、様々な国の産業を知り、その国の人々との触れ合いが体験できることは貴重なことでした。


今、過去の大きな出来事を振り返ってみれば、私世代は多感な年頃に、高度成長期真っ只中の日本を見てきたことになります。

東京オリンピックに向けて、ルート246の上に首都高が出来てきた時、私は池尻大橋辺りに住んでいたので、その工事を毎日、目の当たりにしていました。完成間近になると、通学バスの停留所が、首都高の高架下になり、少し暗く、鬱陶しさを感じたことなど印象深く覚えています。
夢の超特急と呼ばれた新幹線ができたのも1964年でした。子供の頃、佐賀に行くのに普通列車なら24時間、寝台特急を使っても半日がかりのようなところ、大阪まで3時間という、まさに夢のような話が現実になることに驚いたものです。もっとも、私が初めて新幹線に乗ったのは、中学2年の時の修学旅行の時でしたが。アセアセ

しかし、しかし、

2度目の東京オリンピックはキナ臭い賄賂話が出たり、これから予定の大阪万博は予算が膨れるばかりで、世界の国々の参加キャンセルもあり、今さらやる必要あるのか?という国民の声が増大しています。経済的に逼迫の日本を苦しめるばかりのイベントになりそうな予感しかしません。

と、「昔は良かったよ」などとブツクサ言うのも、年取った証拠でしょうか。キョロキョロ汗


色々思い出すと、遠い昔の衝撃的なこと、印象深いことは鮮明に記憶に残っておりますが、直近の記憶は、、、ほぼ、ないです。真顔

昨日、何食べたっけはてなマーク無気力

そのうち、「まだ、朝ごはん食べてないびっくりマーク
って、食べ終わった直後に言うのかしらドクロ


婆の思い出話に、お付き合いいただきまして、ありがとうございましたラブラブ

ちなみに、昨夜は残り物アレンジで


ちゃんと乾杯しておりましたとさ。爆笑