森田を学ぶ前、私はどちらと言うと、自分は自身の事を良く知っている方だと思っていました。しかし森田を学んで分かったことは、それらはすべて頭の中だけのことだったようなんです。つまり、観念的理解でしか無かったのです。
森田を学び、生きていく中で様々なことを体験し、行動していくうち、『自分はこんなことが出来る』、「こんな面もある」などと今まで知らなかった自分をたくさん発見できたのです。
画像 福音館書店 わたし
それと同時に、自分を見る見方も、きれいごとではすまなくなっていました。自分って結構複雑で訳の分からない存在であることもわかってきたのです。当初は愕然としましたが、今は少しずつですが、受け入れられつつあるようです。
自分の中にはどんな自分がいても良い。それが私と言う人間の自然なありようなのでしょうね。
私たちは特別な存在ではありません。どこにでもいる平凡で当たり前の人間です。当たり前と言っても「皆同じ」と言うことではなく、一人一人が違った個性や価値観を持ち、それぞれが無限の可能性を秘めた存在であるということです。
自分を見つめるのは、その可能性に気づき、それを現実の中で開花させていくことです。それこそが森田先生が患者に求めていたことだと理解できるのです。
画像 日経ビジネス電子版 自分は何者か?
神経質者はそれが可能です。なぜなら強い「自己内省性」を持っているからです。自分を振り返る能力が高いからこそ、自分を活かしていく能力も高いのです。
しかし神経質者の自己内省は、症状とかとらわれの周辺のみに限られてしまいがちですので、それらをさらに深堀してほしいんです。
そうすればとらわれや症状を生み出した認識の誤りや偏り、努力方向の偏りは、症状部分だけに存在するものではないことが分かりますし、それ以外の部分にも、様々な欲求や可能性が存在することもわかってくるのです。
そういう意味を込めて、次回以降、私たち神経質は日常生活において、どんな風に自分に気づけるのだろうか? それらをどのように解釈していったらよいか? などについて、自分の体験を踏まえながら考えていきたいと思います。
参考・・・「悩むあなたのままでいい」、「流れと動きの森田療法」