「なりきる」とか「ものそのものになる」と言う言葉は、森田先生が考えたものでしょう。主観と捉われの中に閉じ込められた神経質者は、当然心も動かなくなりますし、同時に体も動きを止めてしまいます。そんな時症者の心の中がいかに不安や恐怖に満ち溢れていようと、外側から見れば、単に「気の利かない」人間であり、「他者を思いやれない」人間なのです。
画像 fuantensh\yoku.com 不安が多い人の転職 他人の評価が気になる
「なりきる」事が出来れば、自分を縛っている価値観からも自由になることが出来ます。捉われに陥った神経質者は、仕事をしていても、遊んでいるときも、ぼーっとしているときも、それがすべて他人の目を意識したものになっているのです。神経質者は常に「他人にどう思われるか」を心配しています。もちろんそれ自体が悪いわけではありません。
しかし、「他人からの評価」を気にするということは、つまるところ『自分で自分を裁いている』ことになるのです。「他者からの評価」と思っているものは、実は自分が下した評価であり、そこにはその人が最も大切に思っている価値観が現れているのです。もちろんそれは極めて主観的な事なんですね。
例えばルックスが大切と思っている人は、当然それを褒められればうれしいはずです。しかし性格を褒められても、あまりうれしくないかもしれません。いずれにせよ世の中には「絶対的な評価」と言うものは存在しません。自分が気にしている評価は、やはりもっとも認められたい部分であり、最も自分が欲しい評価なのです。結局他者の評価と言う偽の物差しで、自分自身を裁いているわけです。
「こうするべきだ」と言うところばかり目が行っていると、周囲の事実を見誤り、適切な判断や行動が出来なくなってしまいます。森田先生はただ「見つめよ」と言いました。
自分の主観的な思考で相手を見ていると、本当の相手は見えていません。こんな時の「ものそのものになる」とは、相手に関心を持つことだと思います。その人からいろいろ聞きだしてみることで、その人のありのままの事実が見えてきます。
画像 funabashi.keizai.biz 船橋経済新聞 湊町小学校でトイレ掃除
「なりきる」を取り上げるにあたり、やはりこの話は外せません。
皆が使うトイレを掃除しなければなりません。誰だって汚いトイレは触れたくないですよね。そんな時神経質者は、「汚いと思ってはならない」とか「嫌だという心を捨てて、無心にならなければならない」などと考えて、まずは心を整えようとします。
しかしどんなに心をやりくりしても、「汚い」と言う事実は変えられません。こんなことをしていたら、永遠に手を付けることは出来ませんね。
こんな時「見つめよ」なのです。
トイレを良く見つめていると、様々な思いが湧いてきます。
「ああ、嫌だなぁ」と言う思い。
「汚いのが気になるので、早くなんとかしたい」と言う思い。
そんな葛藤なり思惑なりが湧いてくる中でも、とりあえずちょっと手を出してみるのです。すると弾みがついて思ったより早くきれいにすることが出来たりします。おまけに達成感も得られるでしょう。
「汚いところはイヤ」と思うのも自分。
「トイレをきれいにしたい」と思うのも自分。ともに『自分』であるなら、自分を捨てるのではなく、自分を発揮すると考えるのです。これが「なりきる」の真骨頂ではありますまいか?
参考・・・「流れと動きの森田療法」、「森田療法のすすめ」