自信とは何か? | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

そもそも自信とは、どういうものでしょうか。

強い人が勝ち、弱い人が負けます。上手な人が良くできて、下手な人はうまくできません。これが事実です。この事実をそのままに見るのが信念であり、自信なのです。

しかしこれではどうしようもありませんね。

読者の皆さんは、出来ないこともできるようになり、強い人にも勝てるように、自信と言うものを持ちたいと考えていらっしゃると思うのです。

しかしそれが自欺のもとなんです。間違いだらけになってしまいます。

 

 

例えば陸上で高飛びをすることを考えます。どうしても気おくれがして、身体が動かなくなってしまいます。そんな時あなたならどんな風に考えますか?

自信をつけようとか、そのほかいろいろ自分の心の態度を決めようとするでしょう。しかしこんな「はからいごと」をしても、心は迷うばかりです。

そこで森田先生は、「静かに自分を見つめなさい」と言うのです。

そうすることで、自分はもう少し上達したいのか、ちょっとでも高く飛びたいと思っているのかなどを、見定めることが出来るのです。

 

もし自分の中に「~したい」と言う欲望が無ければ、気後れしてもそんなことは気にせずに、挑戦を辞めればよいだけの話です。

いやいや、諦めきれないという場合もありましょう。その場合とにかく努力することなのでしょうか。いいえ、もう一度立ち止まる必要があります。たとえば努力に伴う苦心を考えると、『自分はこんなことよりも、勉強が大切だ』と思うかもしれません。あるいは『自分の素質には、こいつは不適当である』との結論を得るかもしれません。このような考えを持って中止する場合もあるでしょう。

 

しかし別の日に、ついついもう少し飛んでみたいという欲望につられて、手を出してみるかもしれません。こんな風にとりあえず辞めずに続けていれば、ついには上達もして、自信もついてくるようになるのです。(少し回りっくどいかもしれませんが、神経質の陥りがちな思想の矛盾~かくあるべし、にはまり込まないための工夫なんですね)

 

 

別の角度から「自信」を考えてみます。

エマーソンは「今日は今日の確信を持って猛進するものの、明日はそれが間違っていたことを知るかもしれない・・いたずらに自分の旧説にこだわって、それを弁護することはしない」と言うようなことを言っています。また孔子も、「誤って改むるに、はばかられることなかれ」と言っています。これが自信であり、信念であり、勇気なのでしょうか。

 

それは失敗も含めて、現在の自分をさらけ出す勇気ある態度の事です。もし人に対してしり込みしたり、ぐすぐずしてしまうのは、自分を赤裸々に打ち出さないからです。人から良く思われたい、卑怯と言われたくないと考えるから自分の信念を曲げ、態度を取り繕い、見栄を張ろうとするのです。それがますます臆病になり、空威張りとなるのです。

 

参考・・・「生の欲望」