昨日の「強迫観念」の記事の中で、「恥ずかしいと思ってはいけないと葛藤すると、赤面恐怖になり、がんを恐れてはならぬと自分に言い聞かせてると、がん恐怖になる」と言う記載がありました。
これについて、「なんだかよくわからない」、「なぜそういう結果になるのかもっと詳しく知りたい」と言う質問が来ましたので、ここで可能な限り答えていきたいと思います。
まず、森田では次のような「ことわざ」があるのです。すなわち
「対人恐怖は、恥知らずになる。」
「不潔恐怖は、不潔になる。」
「縁起恐怖は、幸せを犠牲にする。」
不思議ですよね。例えば対人恐怖は、人から恥知らずと思われないよう苦しんでいる病態だからです。不潔恐怖はもちろん不潔を恐れているわけですし、縁起恐怖は、文字通り不幸になることを恐れているわけです。
なのに、なぜ逆の結果になってしまうのでしょうか。それを一言で言うと、「思想の矛盾」と言うからくりが関与しているからなんです。
例えば赤面恐怖ならば、学校で笑われたとか、好きな女性の前で恥をかかされたという機会から起きることが多いとされています。こういう人は子供のころから恥ずかしがり屋で、臆病者で気が弱いことを悲観し、長じるとこれらの特徴を病的なものと解釈するようになります。そうして強迫観念に成長していきます。
人と会うのが嫌になったり、大勢の前に出るのが耐えられなくなり、やがては電車に乗るのもままならなくなります。
人と目を合わせるのにも、戦々恐々となり、常に目をそらせていなくてはならなくなります。
患者は「これではいけない」と反抗し、時に喧嘩腰になるほど相手の眼をにらみつけることがあります。これも気分本位がなせる業です。相手をにらみつけるのは、自分の中の「恥ずかしい」と言う気持ちを否定し、無理に「恥ずかしがらないように」努力をし、こんなことをしているうちに心はますます内向きになり、視野狭窄にもなるので、周囲の事が目に入らなくなってしまいます。
つまり、患者は自分の無作法や、相手に対する迷惑などは眼中にないようになるのです。要するに自分が「恥ずかしい思いさえしなければ」良いのです。これが「対人恐怖は、恥知らずになる」ゆえんです。
普通の人は、恥ずかしいから恥ずかしがるのです。普通の人は他人に対して恥ずかしいために、人に笑われるようなことや、憎まれるようなことは避けたいがために、自らやましからぬよう努力しているわけですけれど、赤面恐怖は、ただ頭の中だけで理想の自分を追い求めて事実を全く見ていないために、反対の結果になってしまうのです。これが「思想の矛盾」です。
対人恐怖や赤面恐怖に悩んでいる人から相談を受けることも少なくありませんが、ただ「治療法を教えてくれ」と言う風な一方的な注文が多いような気がします。私どもの手間や迷惑を思いやる余地が無いのでしようね。「恥ずかしい思いをしないように」で手一杯になり、人に対して平気で恥ずかしいことをしてしまうのです。
その他の「不潔恐怖」や「縁起恐怖」も、「がん恐怖」もからくりは同じです。事実よりも自分の気持ちを悪くしないような工夫ばかりしているので、たとえ命にかかわるような事実があろうとも、それを顧みる余裕もなくなるのです。
神経質者にとって、事実はどうでも良く、気分のみが大切なんですね。
「縁起」にこだわるのも、「不潔」を回避するのも、もともとは幸せになりたいからであるはずなのに、これにとらわれてしまった暁には、すべての幸せを犠牲にしてしまうのです。
参考・・・「神経衰弱と強迫観念の根治法」