叱らないでね。 | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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昨日まで見てきた「共同体感覚」を育成していくのが、教育の目的ともいえるでしょう。アドラーは当初社会主義に関心を寄せていましたが、やがて教師に働きかけ、子供たちを援助る方法を教えることで、子供たちに影響を与える教育改革こそが、政治による変革よりも、この世界を平和裡に改革するために有効であると考えるようになりました。

アドラーの教師に寄せる信頼は大きく、「教師は子供たちの心を形成し、人類の未来は教師の手にゆだねられている」とまで言っていました。

 

 

アドラーの教育の基本は「勇気づけ」にあります。

親や教師は、子供が共同体感覚を持ち、対人関係の中に入っていける勇気を持てるように、援助しなければなりません。

教育の世界では、昔から「叱ること」と「褒めること」が重要視されてきました。しかしアドラーはそのどちらも認めていないのです。

これはどういうことなのでしょうか。

 

良くスポーツ選手などが、「先輩に叱られたからこそ、今の自分がある」などと言うのを聴き、「厳しく叱ることが教育だ」と思っている親がいるようですが、とんでもないことです。

叱られた子供は、『自分には価値が無い』、『自分はダメ人間である』と思い込んでしまうのです。

「叱る」と言う行為は、基本に上下関係があります。もし親と子供が横の関係、つまり対等な関係だと考えるならば、親は子供を叱ることは出来なくなるはずなのです。

 

叱らないのは放任である。とする人もいますが、子供には必要であれば責任を取るということも、学ばせることも大切になります。

Aさんの娘さんが2歳の頃です。娘さんはミルクの入ったマグカップを持って、部屋中を歩き回っていたのです。そして案の定、途中で躓いてミルクをこぼしてしまいました。

普通の親なら、「何やってるの!」と一括するところかもしれません。

しかしAさんは娘さんにこう尋ねました。「どうしたらいい?」

 

 

娘さんは少し考えたあと、「拭く」と言いました。そして自分で床を拭き出したのです。拭き終えた娘に対してAさんは「ありがとう」と言いました。

ふつう「上から目線」の親ですと、「よくできたね」とするところでしょう。それは無意識かもしれませんが、相手を自分の支配下に置こうとする気持ちがあるためであり、子供は正直あまりうれしくありません。

だからあくまでも「対等な関係」と言う意味で「ありがとう」と感謝の言葉を述べたのです。

 

Aさんはさらに「これからミルクをこぼさないために、どうしたらいいと思う?」と尋ねました。すると「座って飲む」と答えてくれました。

人は誰でも失敗します。失敗こそが多くを学ぶチャンスになります。失敗は避けられないかもしれませんが、何度も同じ失敗をするのは、避けなければなりません。

失敗によって傷ついた人がいれば、謝罪することも必要です。さらに今後同じ失敗を繰り返さないように、話し合いを持てばよいのです。

叱る必要などさらさらありません。

 

叱られっぱなしで育った子供は、人の顔色ばかり窺うスケールの小さな人間になってしまいます。人間は本来、いろいろな側面を持っています。とがった部分もあるし、引っ込んだ部分もあります。とがっている部分が「個性」です。そこを「短所」や「欠点」とみなして矯正しようとすると、(例えば何も起きていないうちから叱っておき、子供の失敗を未然に防ごうとする考え方)とがった部分がなくなってしまいます。

とがった部分の無い子供は、確かに「いい子」になります。しかし自分から工夫して何かをやり遂げようという子供にはなりません。

 

参考・・・『子供を勇気づける』、「人生の意味の心理学」