生き方は選択出来る! | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

まず初めにお詫びをしなければなりません。

このブログでは年末にかけて主にアドラーの「生きる意味」について書いてきました。

そこでは、こんな言葉を紹介してきました。

「一般的な生きる意味はない。」

「人生の意味は、あなたが自身に与えるものだ。」(アドラー)

「人生に何かを期待するのは間違っている。人生があなたに期待しているのだ。」(フランクル)

「人生の意味を問うのではなく、あなたがそれを問われているのだ。」

(キューブラーロス)

つまり、人生の意味を外部に求めるのではなく、自分自身が積極的に自分の人生の生き方を選択し、そこから意味を見出すものである。

と言うことになるでしょうか。

 

 

ここまで書いてきたのですが、実はそのあと、ではどのようにしたら私たちは自ら生き方を選択し、新しい意味付けができるのだろうか、あるいは意味が見つからない人に、どのように意味を見つける支援が出来るのだろうか。などを考えて行こうと思っていたのです。

ところが私のミスで、これらが尻切れトンボになってしまいました。そこで申し訳ないのですが、昨年末の続きを、この場所で書いていきたいと思います。前後のつじつまが全く合わないと思いますが、なるべくわかりやすく説明をしていくつもりですので、どうかお付き合い願います。

 

さて、本題に行く前に、私たちは自分の人生、ひいては生き方をいくらでも変えることが出来るのだ。と言う話から入りましょう。

Aさんは父を嫌っていました。いつも否定的な物言いしかできない人でした。次第に父親とのコミュニケーションがなくなっていきました。

父親の父親、つまりAさんの祖父は、勝手気ままな人で、すぐ子供(父親)を殴りました。Aさんの父は家から逃げ出し、教員になりました。

初めは父親を芯から憎んでいたAさんでしたが、カウンセリングを受けて考え方が変わりました。

「祖父への反発から、父は自分で頑張ってきたのです。それで子供の心配を先取りして、否定的な言い方をしてきたのだと思います。父には、そうならざるを得ない事情があったのです。・・・誰を責めても仕方ないんですよね。代々受け継がれてきたものが原因で、親がいて私がいたということです。それに気づけた人だけが、虐待の連鎖を食い止められるんです。」

 

言うまでもなく、私たちは関係の中で生きています。私たち一人一人は、代々つながった家系と言う鎖の中にいるのです。それは誰の責任でもありません。Aさんはこの心境に至るまで地獄の苦しみを味わいました。

父親を憎み続けるという選択肢もあったはずです。しかしAさんは父親を許す選択をしました。憎んだところで、同じ悲しみが繰り返されるだけであると、Aさんは気づいたのです。

誰かがどこかで「連鎖」と言う鎖を断ち切る必要があるのです。心優しいAさんは、おそらく神様から、その役割を託されたのかもしれません。

 

 

ユダヤ人大虐殺を生き残ったB氏。彼はその後人生を立て直し、富を蓄え結婚もし、子供にも恵まれました。人生は順調に思われました。しかしある日、大きな山火事が発生し、彼の家にも火が回り、妻も子供も焼け死んでしまいました。B氏は再び自分を襲ったこの惨事に、発狂寸前になりました。

周りの人々は、彼に火災原因調査の要求をするよう、急き立てました。しかし彼はそれをせず、残された財産で、火災から自然を守る運動を始めたのです。

B氏は言います。調査は過去に目を向けるものでしかなく、非難しか生み出さない。調査に乗り出せば、必ず誰かを責めることになります。

「人生は何かに敵対して生きるものではない。何かのために生きるものだ。」

 

「なぜこんなことになってしまったのだろう?」

「なぜ、こんなに苦しまなければならないのか?」

「畜生、周りはみんな敵ばかりだ!」

このような価値観に支配されて生きるのも、人生です。しかしB氏は理不尽な事故が起こった世間を許し、二度とこういう悲しい事故が起きないようにと、残りの人生をささげたのです。

悩み苦しむ人は、心が内向きになりがちです。けれど辛いかもしれませんが、「これが今の自分である」ことを言ったん受容して、そのうえで「今の私に何ができるだろうか?」と言うように、外に心を向けることが出来たら、これほど素晴らしいことはないと思うのです。

またこの瞬間、私たちを苦しめてきた悩みや葛藤は、かけがえのない人生の宝物となるのでしょう。

 

参考・・・「そのままのあなたが素晴らしい」、「人生の意味の心理学」