年を重ねてくると、あちこちにガタが来てしまいます。それまでは特に大きな病気もしたことがなく、どちらと言うと健康優良児だった私にとって、昨今の体の衰えは、受け入れがたいものがあります。けれどこの方向性は後戻りできないんですよね。せめて進行をできる限り遅らせるよう、努力するしかないのでしょうか。
それにしてもこうあちこちがたが進んでくると、自分の肉体なのに、なぜか切り離して考えたくなってしまいせんか?
頭が痛くなったり熱が出た場合には内科に行きます。
蕁麻疹が出れば、皮膚科に行きます。
歯が痛くなったら、歯医者に行きます。
気分がすぐれない、ウツ状態になったら心療内科です。
めまいや耳鳴りは、耳鼻科でしょう。
こんな風にしていると、なぜか自分と言う存在は、様々なパーツの寄せ集めのように思えてしまいます。まあ、ここまででなくても、何となく「心と体は別物」と考える人は多いのかもしれません。
けれど皆さんと一緒に勉強しているアドラー心理学では、このようなパーツに分ける考え方を真っ向から否定しているのです。
例えば先に言いました、「肉体と精神」、それから「理性と感情」、さらに「意識と無意識」など、従来の心理学では互いに対立しあう関係とみなされていたものです。
それぞれ「分担」はあるものの、分割して考えることはせず、すべて一つのものとしてとらえる」と言うのがアドラー心理学でいう、「全体論」です。
それは、それは一台の車にたとえられます。
車は前に進むこともできますし、後ろに進む機能もあります。もちろん止まることもできます。さらに左右に曲がることもできます。
これらの機能がバラバラに動いているのではなく、ある時は進み、ある時はバックし、またある時は止まるというように、互いに補い合いながら、一つの目的地に向かって進んでいくのです。
私たちの体や心もまったく同様です。例えば「肉体と精神」のように便宜上呼び分けることは出来ますが、実際には精神と肉体は切っても切れない関係にあり、「精神だけ」、「肉体だけ」を取り上げて考えることは出来ないのです。森田療法の「心身同一論」ですね。
ですので、アドラー心理学では、よく私たちが言う、
「頭ではわかっているけど、やめられない」とか、
「意識では理解できていても、無意識が邪魔をしてしまう」
と言うのはあり得ないんです。だから「わかっちゃいるけどやめられない」と言うのは、単なる言い訳に過ぎないことになります。「ウソ」と言ってもいいでしょう。
「出来ない」のではありません。「やらない」だけです。
「取り組めない」のではなく、「取り組もうとしない」のです。
いかがですか? 目からウロコが落ちたでしょう?
例えばいらいらして、つい周囲にあたってしまうだとか、夜中に甘いお菓子やスナック菓子を取りつかれたように食べてしまう、あるいはお酒やタバコがやめられない、と言うことをあたかも無意識や感情のせいにして、責任逃れをしているだけなんです。
「何だか知らないけど、無意識にお菓子だべちゃうのよね。」とか、
「意志が弱くって、タバコがやめられないんだよ。」
等と言い訳して、まるで辞めたい自分の意志に反した「何か」のせいで良くないと知りながら、ついやってしまっている自分。
おそらくその心理には、
「私は悪くない、無意識のせいなんだ。私は被害者なんだ。」
くらいの気持ちでいるのかもしれません。
「出来ない」のではなく、「やろうとしない」だけ。
確かに厳しい言葉です。だけどこんな風に考えてはいかがでしょう。
「今まで自分は何かのせいで出来ないと思っていたけれど、実際は出来るようになれるんだ」と、希望を持つこともできるのです。
けれど、容易いことではありません。
人によっては自分の心の中の、一番見たくない部分と向き合う必要があるからです。生ごみをため続けて何年も何十年も放置して、見ないふりをしてきた部屋をのぞき込むような心境かもしれません。
でも、それで長年苦しんできた自分と決別できるのなら、やってみる価値はあると思いますよ。
参考・・・「子供を勇気づける教師になろう」、「ウツな気持ちを解きほぐす勇気づけの口ぐせ」