Tさんは幼いころから人を恐れる気持ちが強く、人と接することが大の苦手です。でも仕事をはじめとした日常生活を送っていくためには、どうしても多くの人とかかわりを持たなければなりません。人と接したくないのに、人と接する必要があるのですから、彼の心は常に波立ち、不安と怖れに満ちていました。さらにちょっとした心配事なども、それがなくなるまでは気の休まる時がありませんでした。
このようなTさんは、長年の苦しみから逃れるために、人と接することを嫌と思わず、苦しいと感じないように切に願いました。そうなればいつも心は平安で、安心して生活できるはずです。
心配なことがあっても、それを心配事と感じないようになりたいと思いました。不安定な状態かいつも安定していて、いつでも安心していられる自分になりたかったのです。
そのため人と接することを嫌と思わない強い人間になろうとしたり、心配事にも平気でありたいと努力しました。しかしTさんの望むような安定や安心は得られませんでした。
Tさんは自分の健康にも関心が高かったようです。けれど医師に診てもらうことで悪い病気が見つかってしまうのではないかと言う不安から、長い間、病院に行かれませんでした。若いころはそれでもよかったのですが、還暦近くなるといろいろな体の不調が出てきます。Tさんには軽い頻尿がありました。寝ているときも数回トイレに起きるようになっていました。
そこで仕方なく病院に行きました。トイレの症状とは関係ないのですが、腫瘍マーカーの値が異常に高かったのです。がんが疑われる数値でした。そのため三か月ごとに血液検査をして、経過観察することになりました。
彼は次の検査では数値が下がるだろうと考えていましたが、実際は最初の時より悪い数値でした。Tさんは強い恐怖を感じました。
その次の検査までただでさえ安定していないのに、さらに不安定な状態になってしまいました。
悪いことは重なるものです。二回目の検査の頃から下腹部に軽い痛みを感じ、血便が出るようになりました。病院で診てもらうと、内視鏡検査をするよう言われました。当然がんの疑いがあります。Tさんはなんとかこの不安定な状態から抜け出そうとしましたが、二か所もがんの疑いがあり、安定の境地になれるはずもありません。
さらに悪いことに、Tさんはコンクリートの上で転倒して、左手を骨折してしまいました。
安定や安心を求めているTさんは、それらと真逆の不安定で安心できない状態になってしまいました。しかし、実はそうとばかりも言えないのです。
不安が一つだけですと、その不安にばかり注意が向き、不安はどんどん大きくなってしまいます。しかしTさんのように不安がいくつもありますと、一つの不安にばかりかまけていられないので、それぞれの不安が相対的に小さくなるのです。またこれだけ状態がひどく、深刻な現実に直面せざるを得ない状況に追い込まれますと、この現実を苦しいと思わなくすることは無理なことだと、あきらめもつくのです。
嫌な事や苦しいことを、そう思わなくしようとする心の葛藤が、Tさんをより不安定で安心できない状態に追い込んでいたのです。
Tさんは今まで行くことのなかった病院に行ったことで、多くの人が病気に苦しんでいることが分かりました。多くの人が安心安定の状態ではなく、病気と言う不安定、安心できない状態にあるのです。
今健康な人であっても、いつ病気になるかわかりません、だれでも安心できない世界に住んでいるのです。(平等観)
そうです。
不安定で安心できない世界こそが、日常なのです。私たちはこのような世界に住んでいることを認め、いやなことはいや、苦しいことは苦しいと、事実をありのままに見る時に、逆に安定、安心があることが良く分かりました。
このようなものの見方ができると、もう一つ良いことがあります。
それは事実をありのままに見るようになると、その嫌な事実をなくそうとするよりも、その事実に対して何ができるだろう、という前向きな考え方ができるようになるのです。
参考・・・「森田正馬全集」