ある内科医の場合!② | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

南木氏は幼い頃に、母親を亡くすと言う喪失体験をしています。

この事がパニック障害から『うつ』へと落ち込み、死の誘惑に駆られてしまった一つの要因だろうと思われます。

幸い彼の主治医になった診療内科医のおかげで軽快しましたが、特別な精神療法を受けたという記載はありませんでした。

けれどここで述べられている回復のプロセスは、結局自身の症状のコントロールをやめ、自分の弱い姿をありのままにさらけ出し、その時に出来る事をそれなりにやっていくしかない、と言う深い洞察なしには、起こりえなかったものと思われます。

 

 

この回復過程は、森田療法のそれと共通しています。それはその人の人生の対する『諦め』とともに、限られた自分で生きるしかないという、認識から成り立ちます。実際に南木氏は、長いトンネルの向こうに、今までと違った質の光が見え始めたと感じた頃から、自己を救済する手段として、自己開示の物語を書き出しました。

それら自分を癒すために書いた小説が、評論家の間で褒められることも多くなったと言います。信州で書かれたエッセイは、人生に対する深い悲しみと、慈しみを私たちに感じさせてくれます。

 

彼が病から回復するという事は、決して病気になる前に戻ることではありません。ある意味では今までとまったく異なった認識、価値観による生き方に変更されるということなんです。

彼の回復を一般化して書き出しますと、次のようになります。

①人生の行き詰まりから、『うつ』になります。

②なんとかしなければと足掻き、逆に『うつ』の悪循環に飲み込まれていきます。

③どん底体験

④『出来ないこと』を明らかにし、諦め、受容します。ここから新しい回復のプロセスが始まります。

 

私たちの苦悩は、人生の転換、変化、喪失などからもたらされ、それを事実として受け入れることから、人生の再建、回復が始まります。わたしたちは『失う』事に対し、ただ手をこまねいているだけではないのですね。

失うこと、行き詰ること、

ここから新しい生き方、新しい世界との関わり方を構築できるのです。ここからその人オリジナルの生き方が見えてくるのです。

私たちは『失う』事をしっかりと受け止めていければ、それは必ず『獲得』することをもたらす、と考えます。

そして、その事がまさに、その人の成長、成熟を約束してくれるのです。

 

 

『喪の仕事』について書いたフロイトは、『対象喪失』と愛について、こんな風に述べています。

・・大切な他者は愛着の対象である。それを喪失することで、私たちは愛着を捉え直さざるを得なくなる。自分が多くを分かち合い、愛も憎しみも含め、多くのエネルギーを投じてきた相手と自分の関係を捉えなおし、エネルギーを心のうちに納めていきます。これが『喪の仕事』に相当するわけだが、これは同時に心の中で『対象喪失』が起きている。

つまり、愛着が拒まれる事態なのであるが、それは愛そのものの否定ではないことを納得する事が出来れば、新たな対象に愛を向けていく事も出来るようになる。

 

これが出来てこないと、現実に対して関心が持てず、人間関係を避け、内にこもるようになってしまう。これは鬱状態とも言える。

この事態を打開するには、『喪の仕事』が有効に行われ、新たな愛着と関心を持って他者に、あるいは世界にエネルギーを向けていく事が出来るようにならなくてはいけない。・・

フロイトは自分の父が死に、心がふさいで苦しんだ時期がありました。だが、その苦しみのなかから、精神分析と言う、新しい思想が生み出される事になるのです。

愛の対象が失われること。自分が大切にしていた世界が失われること。これが『喪失』です。

理解しやすいように、"死んだ人は、まったく居なくなってしまうのか"、と言うことを考えてみます。

 

 

死んでしまった人は、残された人にとってある意味非常にリアルに存在しています。死者は生きているものに対し、語りかけてくることもあるし、自分の気持ちが何時も死者に向かっているような気がします。

なので『死んだ人は居ない』とは、中々言えないものです。

でも、死者が現実にこちらに働きかけてくる事はありません。心にとっては『居る』にもかかわらず、現実には『居ない』と言う、この矛盾と葛藤を受け入れ、認識していくのが『喪の仕事』と言うことの意味合いです。

現実には『居ない』

だが心の中には『居続けている』。

そういう他者とのかかわりが問い直される事になります。だからこそ『喪の仕事』と言う、悲しみの作業が続くのですね。

 

『失ったものはどうにもならない』

辛くて悲しくて、とても受け入れられない状態かもしれませんが、私たちはいずれこの現実に向き合わなければなりません。

はらわたがちぎれるような葛藤が、あなたを襲うかもしれません。

けれど、どうすることもできません。何年掛かるか分かりませんが、私たちはその事実を受け入れざるを得なくなった時、往生できるのです。

そうして新しい自分を発見し、新しい生き方を手に入れる事が出来るのです。北西先生がこれまで述べてきた一連の回復過程は、かつてフロイトが同じような苦しみの中で考え出した『喪の仕事』と、どこかでつながっているような気がするのです。

私たちが生きていくこと。これほど大変な事は無いのですね。

 

参考・・・『喪(悲哀)とメランコリー』、『中年期うつと森田療法』