一編の詩をご紹介します。
大漁
朝焼け小焼けだ 大漁だ
大羽鰯の 大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では 何万の
鰯の弔い するだろう
もうご存知ですね。金子みすずの有名な詩の一つ『大漁』です。
金子みすずの詩は、東日本大震災の時に、よくテレビで流されていましたね。それで金子みすずを知った人も多いでしょう。
『皆違って、皆良い』とか、
『こだまでしょうか』などは流行語にもなりましたよね。
大漁旗を掲げた漁船が、次々港に入ってきます。港や浜はまるでお祭りであるかのように賑わっています。まさに上げ上げ状態ですね。
そんな中でみすず一人だけが、海の中で鰯たちが弔いをしている悲しい様子を感じ取っていました。
人間にとっては『お祝い』かもしれませんが、鰯にとっては『災害』以外の何者でもないですよね。
鰯だって好き好んで人間に捕まっているわけではありません。魚だけではありません。人間は他の生き物の命を奪って生き延びています。
稲は人に食べられるために実をつけるのでしょうか?
動物は人に食べられるために生きているのでしょうか?
適者生存といわれます。
弱肉強食とも言われます。
生存競争には、犠牲がつきものです。他の人間は当然のように割り切っているかのように振舞います。けれどみすず自身、どうにも割り切れない気持ちを抱えていたのですね。
殺生しなければ、生きていけない人間。
こう言われれば納得せざるを得ないけれど、やはり割り切れない気持ちはどうしようもありません。動物にも命があります。草にも命があります。それらをいちいち『かわいそう』などと言っていたら、私たちは生きていけません。こんなことばかり考えていたら、生きていくことさえ辛くなってしまいます。
このような苦しみを『実存的苦悩』といいます。別な言い方をすると、『スピリチュアルペイン』です。存在そのものの痛み、苦しみと言うところでしょうか。
金子みすずは、おそらく普通の人の何百倍も、『実存的苦悩』の感受性が強かったのではないでしょうか。
『実存的苦悩』は、生きている人間ならば、誰でも感じるものです。ただ人生が順調に推移しているときは、あまり意識しないかもしれません。ところが死を意識するような事態に陥ったときなどに、私たちは『実存的苦悩』をいやおう無く意識する事になるのです。
『なぜ、私は生きているのか』
『何のために生きているのか』
『苦しい仕事を続ける意味は何か』
『なぜ自分は病気になったのか』
『なぜ自分は死ななければならないのか』
『死んだ後はどうなるのか』
『人間として生を受けて意味はあるのか』
『私は人を幸せに出来たのだろうか』
このように考えていくと、『人生 = 苦しみ、悩み』と言えそうです。それでも明るく前向きに生きる事も可能でしょう。ただしこれには条件があります。人生をかけて取り組めるものを持っている事です。夢中になれるものを持っていることです。目標を持って実践する事がある事です。そしてこれがもっとも大切な事ですが、意識するしないに関わらず、本人が『生きている意味』を感じている事です。
対象は何でも良いのです。仕事でも良いし、趣味でも良いし、家族でも良いし、友人でも良いし、ボランティア活動でも結構です。
ところが老年になっていくにつれ、私たちに『生きる意味』を与えてくれるものが、少しずつ少なくなってくるのです。もうお分かりでしょう。年を取るにつれて、『実存的苦悩』に気づきやすくなるのです。