『あるがまま』を考えよう⑦ | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

森田先生は、神経質症について、次のように語っている。

『いわゆる神経衰弱(神経質の古い呼称)と言うものは、病気ではなく、心の捉われであり、人生の煩悶苦悩の典型的なものである。』

コレは自分の体験を通しても、そのとおりであると思う。

だから私個人の意見を言うと、病気ではないのだから、『森田療法』と言うのはそぐわない。せめて名前をつけるなら『森田生活道』と言う方が適切ではなかろうか。

 

 

森田療法の根本、真髄と言えば『あるがまま』である。森田先生は、あるがままについて、このように述べている。

『あるがままで良い。あるがままであるより仕方が無い』と。

ちなみに『あるがまま』の反対は、『かくあるべし』である。

『かくあるべし』とは、観念的に『こうあるべき』と言った理想を心に描き、実際の人やモノを見ようとせず、あくまでも理想を推し進めようとする心の構えである。

 

現代的な言い方をすれば、それは『心のものさし』である。私たちは知らず知らずのうちにいろんな『ものさし』で物事や人を評価している。

例えば、『学校に行けない子供は落ちこぼれだ。』

『損はいやだ、得をしたい』

『勉強で出来る子は良い子。』

『若いことは素晴らしい、年よりは惨めだ。』

勿論他人だけでは無い。上記のものさしを自分に当てて、理想に達しない自分を責め立てているのである。

 

いずれにせよ現実から遊離し、理想のみを追求しようとすると、型にはまった行動しか出来なくなる。絶えず変化していく環境や社会に適応する事が難しくなり、主観的にも苦しくなってくる。

じつは青年時代の自分も、理想どおりの生活を観念的に推し進めようとしていたために、何事もうまく行かないばかりでなく、全てが理想と逆行するばかりで、すっかり行き詰ってしまったのである。

 

 

前にも少し触れたが、『あるがまま』はよく勘違いされやすい。自分の欲求に忠実に従うのを『あるがまま』だと思っているものが居る。

あながち間違いでは無いが、それは動物の『あるがまま』である。

動物の『あるがまま』は、『快を求め、不快を避ける』と言うものだ。けれども人間の私たちは単に『快を求め、不快を避ける』だけでは生きているとはいえない。私たちには『向上発展したい』と言う生の欲望が厳然として存在する。怠け放題は確かに快適だが、それでは決して満足できないのだ。

 

私も昔、重症の対人恐怖になり、廃人同様の生活をしていた。会社にも行かず、誰とも会わず、ひたすら公園のベンチで寝転んでいた。一見楽な生活に思えるかもしれないが、精神的に最も辛かったのが、この時期である。なぜなら心の中には燃え滾る向上欲求があるのに、実生活ではそれと逆行するように、怠惰な生活を送っていたからだ。

そのころから森田関係の本もぼちぼち読み始めていたのだが、今でもはっきり覚えている在る方の体験記があった。

 

かりにHさんとする。外交官である。彼もまた私と同じように、若い頃さまざまな神経質症に悩んだ経験がある。彼の体験はいろいろなところに出ているので、詳細は書かないが、ここでは要点だけを述べてみたいと思う。

 

 

彼は小学校の頃、『小便を漏らす恐怖』に捉われ、授業中に先生の許可を得て便所に走ったものの、途中で漏らしてしまい、『小便小僧』のあだ名を頂戴した。また、高校の頃に大きな手術を受け、その影響で背骨が少し曲がってしまった。それからは背骨の事が気になりだし、『片輪になるのでは無いか』と言う恐怖に捉われた。

幸運にも東大法学部に入学できたものの、身体の事が気になって勉強に身が入らない。そればかりでなく、どうも自分の能力、体力、知力、性格について全てにわたり自信が持てないのである。

 

『自分に自信が持てない』

と言うのは神経質症の大きな特徴の一つであるが、神経質症でなくとも、自信のなさに悩む人は少なくない。

自信が持てない理由はいくつかあるが、もっとも大きいのは自分自身を良く知らないせいである。もっと言うなら自分に無関心なのである。だから人と比較ばかりして、ますます自信を失っている。

つまり事実を見ようとしないで、観念の世界にばかり逃げ込んでいるのである。自分の対峙している問題に真剣に取り組もうとしないからである。

 

参考・・・『成長したい人のために』、『あるがままに生きる』