『あるがまま』を考えよう② | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

強迫観念の場合を考えてみる。強迫観念とは長期間にわたって身に着けた一つのしつこい癖である。例えば対人恐怖では、人と会うたびごとに対人恐怖的症状を呈するようになっている。予期不安と言って、会う前からもうその手の不安を持つ場合もある。コレは長年の癖になっているので、反射的に起きてしまう。本人はどうする事も出来ないのである。不可抗力と言ってよい。

 

不潔恐怖の人は、折に触れ手を洗いたい衝動に駆られる。コレも癖になっているので、その衝動が起こるのを防ぐことは出来ない。ガンを恐れる人は、病気の事が思い浮かぶたび、ガンに罹っているのではと言う不安が不可抗力的に起こって来る。

このように強迫観念と言うものは、意志の力で抑える事が出来ないほど必然的に起きてしまうのである。ここが普通の思考と異なるところである。

 

 

では、この強迫観念が起こる事を意志の力で抑えようと勉める場合はどうなるだろうか。結果は当然反対になる。必然的に起きる心理を抑えようとすれば負け戦になるに決まっている。コレがすなわち葛藤と言うものだ。強迫観念はこのような葛藤によって形成され、葛藤によって強化される。だが強迫観念に抵抗するほどそれに悩まされる事になる。だから強迫観念は受け入れるしかないのである。

これが『あるがまま』である。

 

対人恐怖の人は、対人恐怖的心理が起こるままに任せる。ビクビクハラハラのままで居るより仕方が無いのである。本当にそれになりきれば葛藤は当然薄らいでくる。対人恐怖は存在していても、葛藤による二重の苦しみからは解放される。ところが現実は中々素直に受け入れる事が出来ないのである。ビクビクしないで平気になろうと考える。これは『はからい』と言って、『あるがまま』とはまったく別の態度である。

 

 

不潔恐怖の人は、手を洗いたい気持ちは起こるがままにしておく他は無い。縁起恐怖は、何か不吉な事が起こりそうなときの不安な気分は、起こるがままにしておく以外に無い。ガン恐怖の人は、ガンの観念や恐怖は起こりっぱなしにしておくのである。へたに検索などしないこと。頭が重い人は、頭は重いものと心得るほか仕方が無い。

これが『あるがまま』な態度である。

 

ところが上記のように『あるがまま』に任せると言うのを、『あきらめ』と混同する人が居る。似たところもあるが根本的に異なるものである。ここが大切な要点であり、治療の秘訣がここにあるのである。

全ての人間には本来、向上発展の欲望が備わっている。つまり自分の能力を発揮して一人前の社会人として。自他のために貢献したいと言う欲望である。森田先生の言われる『生の欲望』と言うのがコレにあたる。生の欲望は、神経質の人に置いては人一倍強くなっている。神経質の症状と言うものは、生の欲望の裏返しと言ってよい。生きる欲望が強いから、死の恐怖もまた強くなるのである。

 

参考・・・『あるがままに生きる』、『神経質症と心のからくり』