救いを断念する | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

私達の周りには、常に不安の影が付きまといます。あたかも自分の影の様でもあります。自分が右に動けば右に動くし、左に動けば左に動く。不安と言う感情は忌まわしいものであるけれど、もしかしたら自分の分身かもしれません。

 

さて、便宜上、『不安』は二つに分けることが出来ます。

一つが『お医者さんが治せる』不安です。

もう一つが『お医者さんでは治せない』不安です。

ここでお医者さんと言うのはもちろん精神科医です。治せる不安と言うのは、言うなれば病的な不安です。

 

 

例えば

対人恐怖のような、○○恐怖と言うもので、日常生活が立ち行かなくなってしまった人たちの不安です。この中には、知らない人と話せない、大勢の前では話せない、人の目が怖い、乗り物で心臓がバクバクしてしまう、などの不安群が含まれます。いわば『病的な不安』です。

このような不安群は、それぞれ症状として分類がなされ、それぞれの症状に応じて、ふさわしい薬が選択されていきます。このような不安に対しては、精神科医はお手の物です。

 

しかし、一方でお医者さんでは治せない不安もあります。

それは『健康な不安』です。言い換えれば『正常な不安』です。例えば『死の不安』です。多かれ少なかれ、死の不安の無い人は居ません。いたとしたら、そちらの方が異常です。

特に終末期が迫った難病患者にとっては深刻です。けれど『死の不安』はまったく正常のものであり、従ってどんな名医であっても、コレを治す事は出来ないのです。

 

精神科医は、異常な精神状態や異常な不安、恐怖に対してはベテランです。ですが健康な不安に対する対処法など習っていないし、第一まったく必要性を感じていないのです、なぜなら、正常範囲のものは、放って置けば良いからです。放っておくしかないからです。

けれども『健康な不安』、『正常な不安』で悩み苦しむ人が居るのも、厳然たる事実なんです。こういう人たちを、精神科医はどうすることも出来ないで居るのです。

 

神経質症も、不安に寄って引き起こされる疾患です。と言うより不安そのものが症状です。しかも症状の元となった不安は、ほとんど『正常な不安』なんですね。だから治しようが無いんです。精神科医に出来る事は、薬によって少しばかりアタマをぼんやりさせて、不安に対する鋭敏さを緩和することくらいです。もちろんコレでは治したことになりません。

 

神経質症は『治そうとする病気』だとも言われます。つまり『治そうと頑張っている間は治らない。治そうとしなければ治る』と言われているのです。森田療法では、次のような考え方を推奨します。

つまり、その症状がどんなに辛く苦しいものであっても、『この症状は治らない。だからこの状態のまま、出来ることをしていく以外に無い。命の限り生き抜くしかない』と言う覚悟が必要になってくるのです。

 

これが、『自分の救いを断念する』事です。症状を治すことばかり考えている神経質者には、最も遠い境地のように思われますけど、大丈夫です。神経質者は粘り強く、なんとしても症状を治そうと考えていますから、いずれ『症状は治らない』事実を受け入れざるを得ないんです。それは『しぶしぶ』かもしれませんが、とにかく『治す』次元から離れた時点で、初めて『治る』入り口に立つことができるのです。

 

 

勿論神経質の寄って立つところは、『正常な不安』です。ですから治った暁にも、『正常な不安』が無くなることはありません。

それでは治っていないのではないか?

・・とお思いの方もおられるでしょう。そういう方は、もう一度最初から私のブログを読み返してください(笑)。

一つだけヒントを出しておきましょう。森田療法は症状そのものを治すものではありませんよね。何を治すんでしたっけ?

 

現代医学は、『異常なものを正常化する』事で発展してきました。ですから最初から『正常』なものは対象になっていないんですね。でも医学上の正常異常の概念と、症状の強さ苦しさとは、直接関係がありません。身体のどこにも異常がないからこそ、より苦しみが強くなる場合もあるのです。慢性疼痛など良い例ですよね。

『希望』と言う出口が閉ざされた後には『絶望』しかないと思ったら大間違いです。かりに『絶望』だとしても、『絶望』からさらに道は続いているのです。

 

参考・・・『終末医療のあり方』、「ネガティブケイパビリティ』