こんなことを考えてみた。
生きる苦しみの大部分は、『渇愛』によるものだとあった。『渇愛』とは、求めても求めても得えられない欲望のことを言うそうだ。そういえば私達は常に、『あれが欲しい』の『これが足りない』だのと騒いでいる。
神経質症も常に『自分は○○が足りない』と思っている。そして何とかそこを埋め合わせしようと右往左往している。
○○が足りない。
と思うのは、裏を返せば××は足りている。と言うことなのだろう。足りているものが有るから、足りないものが目立つのである。神経質症の完全欲である。一般に言われている『渇愛』も、同様のからくりによるものではなかろうか。
だとしたら、こんな風に考えられないか。
なまじ××が有るからいけないのである。もし最初から何にも無ければ、これを埋め合わせしようと言う発想は生まれないのではなかろうか。最初は抵抗が有るかもしれないが、『何も無い』生活を何年、何十年と続ければ、やがて『何も無い』のが当たり前になる。それで十分生活が出来ているのなら、この上に何を欲しがると言うのだろうか。
・・・はい、ここまで!
今までもっともらしく展開してきた"理論"は、私の単なる思い付きであり、何の根拠も無い屁理屈に過ぎないものである。
種明かしをすれば、昨日の『一苦』の話しも同様、お茶を濁す効果も無い単なる『屁理屈』なのである。
一人か二人くらい、『はぁ、なるほど』と感心された方も居るかもしれない。そういう方には謝らなければならないかもしれない。
なぜ『屁理屈』が良くないのか。
それは、頭の中だけでこしらえたものであり、事実ではないからである。良く出来た『屁理屈』ほど事実と見分けがつかないが、それが科学的に証明されない限り、(客観的)事実とは呼べないのである。
屁理屈ではなく、本人が心底そう思っているのであれば、それは『主観的事実』と呼ぶものであり、『客観的事実』とは一線を隠すものである。
いくら巧みな『屁理屈』を考えても、事実はびくともしない。
いくら『一苦』なんて言っても、やはり『生老病死』の苦しみは生きている限りついて回る。
いくら『何も無い』生活が良いと言っても、やはり人間、生きている限りさまざまな欲望は途絶えることは無い。
ひとつだけ『屁理屈』の効用を上げるなら、多少は『気休め』になるかもしれないと言うことだ。
明日はそんな例を挙げてみよう。