苦悩のものさし | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

私たちが感じる『苦悩』と言うものは絶対的に主観的なものであり、したがってそれらの『比較』はまったく意味を成さないものである。

 

Aさんは最愛の旦那さんを亡くした。

Bさんは将来性のある優秀な息子を亡くした。

 

普通に考えれば、子供に先立たれる不幸の方が、より辛いものであると考えられている。ものには順番と言うものがあり、旦那が死んで、次に奥さんが死んで・・・と言う風に順ぐりに行くものと考えられている。

そう考えれば、まず旦那が亡くなるのはある程度予想できる。しかし息子がなくなるのは予想できない。だからより辛いのだろうと考える。

 

苦悩2

 

だが、このような『屁理屈』は、悲しみに沈んでいる当人たちにはまったく意味の無いものに聞こえるだろう。

Aさんはこの世で最も愛している伴侶を亡くしたのである。その悲しみはおそらく世界で最も苦しいものに感じられていることだろう。そう、これ以上の悲しみはAさんにとって存在しないのである。つまり、最悪の悲しみであり、絶対的な悲しみなのだ。

もちろん同様のことはBさんにも言える。

 

なのに、苦悩の『ものさし』とはどういうことだろう。

実は昨日、神経質者の会の定例会があった。初回の方が二人見えられた。

そのうちの一人は、60代後半の華奢なご婦人である。

彼女は私たちの症状を一通り聞き終わった後、次のような言葉を吐いた。

 

『皆さん、軽いですね』

 

つまり、あなたたちの症状は、苦しい苦しいと言ってるけれど、私の苦しみに比べれば、なんでもないくらいに軽いものですね』

と言う意味である。一瞬私たちは耳を疑った。

神経質症は、自分の症状が最も苦しいと思っている。なぜなら主観的で他人に思いやりが無いためである。

 

けれども一応人とうまくやりたいという欲望も抱えているので、先のご夫人のような発言はまずしない。心の中でひそかに思っているだけである。それなのにあのように公言するとはどういう神経なのだろうか。一瞬、ほかの精神的な病気の疑いが頭を掠めた。

 

体験を伺った。はじめは5分程度と考えていたが、次から次へと壮絶な体験が語られる。結局1時間ほどかかってしまった。

彼女は現在『うつ』で治療を受けている。薬の副作用も強いらしい。もしかすると先の発言は、薬で朦朧とした頭のなせる業だったのかもしれない。

それにしても壮絶すぎる。自分の口から『あなたたちは軽い』といわせてしまうほど、彼女は想像を絶する苦しい体験をなめてきたのである。

 

『自分が一番苦しい』と考えるのは、自己中心的な神経質者が最も陥りやすい迷妄である。だが治療が進み、少しずつ自己中心さが緩和されてくると、他人の痛みや辛さに共感できるようになり、『自分が一番苦しい』と言う発言は少なくなる。

言ってみれば、これがその人の苦悩の程度を類推するひとつの『ものさし』にもなりえるのだ。

 

最もひどいのが、『自分が一番辛い、あなたたちは軽くてうらやましい』などとしゃべってしまう、先のご婦人タイプである。

彼女の場合、いろいろな病気や悩みが錯綜しているようなので、一概には言えないが、もし純粋な神経質者だったら、最も自己中心さが強く出ているタイプであり、それに気づかないくらい苦悩が激しいと思われるのである。

 

苦悩1

 

次に、心の中では自分が最も苦しいと考えてはいるものの、口には出さないタイプである。神経質者はこのタイプが最も多い。一応社交辞令はわきまえているし、相手を受け入れるような態度も示すことができるが、自分だけが苦しい思いをしている。と言う考え方から他人との間に壁を作り、拒否するような態度を見せることがある。自分でこれらを自覚していないようなら、苦悩のレベルもそれなりに高いと考えなくてはならないだろう。

 

もう少し治療が進んで来ると、ほかの人も自分と同じくらい、あるいはそれ以上に苦しんでいることが理解でき、自己中心さはほとんど見られなくなる。しかしストレス過剰な状態や、身体の不調などの要因より、多少のゆり戻しが見られ、症状を強く感じることもある。が、それが去っていけば再び共感できる人間性を取り戻すことができる。

苦悩のレベルは最も軽いと考えられる。

 

ここに示したのはあくまでも私の主観であり、学術的に何たらかんたらと言うことはまったく無いので、参考程度に聞いてもらいたい。

さて、明日からはこの日に講師として見えられたH氏のお話を中心に紹介していく予定なので、ご期待を。