自分を殺す? | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

いきなり物騒なタイトルですみません。もちろん『自殺の勧め』ではありません。
私たちは程度の差はあれ、皆『自己中心』であります。これは事実ですから、非難しても意味がありません。ただ受け入れて生きていくしかありません。
普通『神経質』になるような人は、たとえば親の愛情が足りなかったとか、性格上十分な人付き合い体験が不足しているとか、いずれにせよ何かが『不足』しているためにこうなったと考える場合が多いようです。
 
付き合い
 
けれども、あまりに濃厚で過剰な親の保護下で育った人の中にも、少なからず神経質症になる人も居るようです。しかもこのような人たちは先の『自己中心』さが際立つ傾向にあるのです。過剰な『自己中心』さは、やはり治していく必要があります。
平たく言えば、甘やかされて育った人たちです。社会化されていないともいえるでしょう。通常彼らは家の中ではわがまま放題にすごしていますが、そういう人が一歩社会に出ると、とたんに不適応を起こして神経質症になってしまうのです。
 
『自分を殺して、自分を生かす』
と言う言葉が森田にはあります。私たちが生きていくためにはさまざまな制限が加えられます。そんな中で自分のわがままを通そうとしたり、自分の意見を押し通そうとすると、さまざまな軋轢が生じ、適応するのが難しくなってまいります。普通の人であれば、そういう失敗体験を糧にして、ではどのようにすればうまくいくのかを研究し、さらに人間関係の波にもまれながら、だんだん身体で覚えこんでいくわけですね。
 
人間関係をうまく保つためには、我を通してばかりでもいけないし、かといって相手の言いなりになってばかりでもいけない。基本的なことは自分がしてほしくないことは相手にもしないこと。自分がしてほしいことは相手にもしてあげること。そんなことがわかってくればおのずと人間関係のコツと言うものが見えてくるはずです。そして良い意味で『自分を殺す』ことも上手になってまいります。これが『社会化』されるということです。
 
麦
 
ところが神経質症になるような人は、変に頑固なところがあるんですね。たとえば自分がされて嬉しいものでもないのに、なぜ、嬉しそうな顔をせねばならないのか。それは自分を欺くことである。とか、心にも無いことを人に言うのは相手をだますことであり、正直な自分にはとても出来ないことである。などと考えてお世辞のひとつも言えない人も居るようなんです。
 
もちろん無理にお世辞やおべっかを言う必要は無いでしょう。けれどもお世辞が言えないからと、自分から人付き合いの悪化を図るのは得策ではありません。お世辞がイヤなら、本当に自分が感心したことだけを、素直に相手に伝えればよいのです。相手も自分を認めてくれたと嬉しくなり、あなたに好意を寄せてくるかもしれません。
 
聖書のたとえ話に『一粒の麦』と言うのがあります。『一粒の麦』は、土に落ちて死ねば、多くの実りをもたらします。けれど自らの死を拒否すれば、一粒の麦のまま枯れてしまいます。私たちもまた、実り多き人生を歩むためには、『自分を殺す』ことも必要なんです。そして、『自己中心』さや『頑固』さを持ちながらも『自分を殺す』生き方を模索し実行していくことが、そのままもっとも『自分を生かす』生き方であることに、気づけるのです。