二つの立場②(森) | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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森田療法を理解するための『二つの立場』の一つ目は『事実唯真』でした。観念的な理想像ではなく、事実に立脚したものの見方をすることが大切だということです。

では、『事実唯真』に並ぶもうひとつの『立場』とは何でしょうか。

それが『実践の立場』と言うものなのです。

くだもの

言うまでも無く、『あるがまま』は、『なすべきをなす』ことによって実現します。実践が大切なんですね。せっかく森田療法を勉強しても、それを日常生活の中で生かし、なすべきことをなしていかなければ、何の役にも立ちません。

といいますか、森田療法自体、自分で動いて、自分で体得しなければ、本当に理解することはできないようにできているのです。

 

いま『体得』と言う言葉を使いました。体得は単なる頭の理解ではありません。たとえばここに果物のパッションフルーツと、ドリアンがあるとします。この味を食べていない人にうまく説明できますか? 理解させるのは難しいですよね。だけど一口食べさせてみればたちどころにわかります。これが『体得』です。

頭の中だけで自転車乗りのシュミレーションをしても、乗れるようにはなりません。私たちは実際に自転車にまたがって何度も転びながら、何とか平衡感覚をつかむことができるのです。これが『体得』です。『体得』したものを『体得』してない人に理解させるのは至難の技です。

自転車

同様なことが森田療法にもいえるのですね。最初に学ぶ理論は難しくて何を言わんとするのか良くわからないかもしれません。しかし先輩方の助言を受けて疑いながらも言われたとおりやっているうちに、ふと、心が軽くなる瞬間が訪れます。

「あっ! これだ」と気づきます。そうか、森田理論のあの部分は、まさにこのことを言っていたのか! と、ここで初めて理論を『体得』することができるのです。

 

『体得』は、『なすべきをなす』以外にはありません。

赤面を恐怖しながらでも、必要とあれば人に会って用件を果たしていく。と言う実行なくして赤面恐怖のとらわれから抜け出すことはできません。

恐怖しながらでも人に会っていくこと。このような体験を反復することで、やがて恐怖心を排斥しない態度が体得できるようになり、やがては『症状』をも忘れるときが訪れるのであります。

くどいようですが、畳の上で水泳の練習をしても、何にもならないのです。