神経質者は、いろいろな面で不可能を可能にしようと努力している。もちろん本人は可能であると思ってがんばっているのだが、もともと不可能なものだからその努力は成功しない。これで諦められれば良いのだが、粘り強い神経質者のこと、がんばりや努力が足りないとか言って、ますます過剰な努力を繰り返していくのである。
その不可能の努力の中で、多くの人がやってしまうもののひとつに、「雑念を起こさずに、常にクリアな状態で勉強や業務に集中したい。」というものだ。よほど雑念に苦しめられているのだろうか。確かに勉強にせよ仕事にせよ、常に集中した精神状態でおれば、勉強ははかどるし、能率もあがる。しかも疲れ知らずである。こんなことが達成できればどんなに良かろうにと思う。
だが、これは不可能なことである。私たちの精神状態は緊張と弛緩、集中と拡散を繰り返しながら均衡を保っているものなのだ。もし、皆さんが電車に乗って本を読んでいて集中してしまったら、降りる駅にも気づかず、終点まで連れて行かれることになる。
道を歩いていて、集中して考え事をしていたら、近づく車にも気づかないことになる。さらに家の中でも集中して勉強していたら、火事になっても気がつかない可能性だってあるのだ。
さらに言うなら、私たちは集中しないときがあるから、こうして生きていられるのだ。もし仕事なり勉強なりに全神経を集中させ、それが長時間持続できたらどうなるだろう。何時間も何十時間も集中し続けるのだ。心はそれでいいかもしれない。だが体のほうがギブアップしてしまう。体がSOSを発しているのに気づかない可能性があるのだ。私たちは時折精神が弛緩して他に注意が行き渡るおかげで、体の疲れにも気づくし、空腹であることにも気づくのである。
皆さんは今、パソコンに向かって私のつたない文章を読んでくださっているわけだが、ちょっと画面から目を離し、近くにある時計の音に注意を集中してもらいたい。とりあえず一分間、時計のコチコチという秒針の音を聞いていただこう。
・・・いかがだろうか。秒針の音は規則正しく一定のリズムで刻んでいるわけだが、なんとなく音が大きく聞こえたり小さくなったりしなかっただろうか。人によっては早くなったり遅くなったりして聞こえるという場合もあるという。
これは私たちの感覚が集中と弛緩を繰り返している証明である。
雑念が邪魔で勉強できない。
すぐに集中が途切れてしまう。もっと集中力を高めたい。
もっともな欲求であるが、これがもし「常に集中しなければならない」という思想が根底にあるとすれば、それは不可能を可能にする試みであり、絶対に成功する見込みはない。
雑念があるときは、雑念が浮かぶに任せて勉強を続ければよいのである。やがて注意の重点は雑念から本の内容に振り向けられ、知らず知らずのうちに勉強三昧になっているはずである。通常、私たちはこの変化を意識することはできない。だから意識的にどうすることもできないのだ。