受け入れようとすること(森) | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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少し難しい話になる事を、お許し願いたい。

神経質者の会では「あるがまま」を二つの側面から説明している。ひとつは「受動的側面」、もうひとつが「能動的側面」である。「受動的側面」とは、「不安や苦痛を素直に認め、否定したり回避したりせず、そのまま受け入れる」事であり、「能動的側面」とは、「生の欲望に沿って、なすべきことをなしていく」事である。症状克服で大切なのは後者の「能動的側面」である。

 

このように説明すると、次のような誤った解釈がなされることがある。

つまり「受動的側面」を体験した後、「能動的側面」に進むという捉え方である。そうするにはまず不安や苦痛を素直に認め、それらを何とか受け入れようとがんばることである。・・と。

だが、これでは100パーセントうまくいかない。

                    花

受け入れようとすればするほど、不安や苦痛は強くなってしまう。だからますます「能動的側面」に進めなくなってしまう。なぜなら、「症状を受け入れよう」と努力すること自体が、「はからいごと」になっているからである。「症状を受け入れる」事が、すでに不安や苦痛に意識を集中していることになるからである。

では、どうすればいいのであろうか。

 

それは、「生の欲望に沿って、なすべきことをなしていく」事である。「能動的側面」である。「たけのこ」の例で言えば、岩に沿って伸びていくことである。対人恐怖の人であれば、びくびくしながら用件を片付けることである。このような実践によって、自然に「受け入れる」態度が実現するのである。

 

私たちの注意は、同時に二つのことに重点を置くことはできない。要件を片付けようとすれば、どうしても注意の重点は、症状よりも用件に移さざるを得ない。このような実践を積み重ねることで、結果として症状を受け入れる態度が養成されて来るのである。

「あるがまま」の実践は、まず「なすべきことをなす」事から始まる。