『言葉』と『台詞』。 | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

明日もしかしたら更新できないかもしれませんので、今日はも一つサービスしちゃいます?

 

いわゆる『流行語』と言うものがあります。そのうちいくつかは忘れ去られ、いくつかは後世に残ります。

俳人の金子兜太氏の著書の中に、こんな記述がありました。

日本語には時代の中で生み出されたもの、まだ熟成されず地に足がついていない言葉がたくさんあります。日常会話では盛んに使われていても、俳句の五七五の中に入れて見るとまったくなじまず、はじき出されてしまうものがあります。まだ人の心を捉える本当の強さを獲得していないのです。俳句のリズムに乗るかどうかは、その言葉が本物であるかどうかを教えてくれるのです。

 


この文章で思い出した記事があります。

俳優の大滝秀治氏に関するものでした。

・・・彼は役作りに入ると、24時間台本を手放さなかった。徹底的に読み込み『台詞』を自分の『言葉』とした。

氏はこう言った。

「台本の活字が見えるうちは、まだまだ『台詞』だ。活字が見えなくなってはじめて『台詞』が『言葉』になる。つまり舞台は『言葉』なんだ」

 

俳人と俳優と言う異なった分野の巨頭でありながら、ここに共通した思いを感じるのは私だけではないでしょう。それは本物の生きた言葉を使いなさい。ということでありましょう。

私たちはどうしても『ウケ』を狙いたくてわざと新奇な言葉を使いたがります。あるいはわざと難しい言い回しや解りづらい表現を駆使して自分の『頭の良さ』をアピールしたりします。

しかしこれらは所詮『借り物』の言葉です。大滝流に言えば『台詞』です。自分のものになっていないのです。ですから人の心に届きません。

 

私も神経質者の会で、偉そうに皆さんに講釈することがあります。やはりもともと小心者ですからどうしても背伸びをした言葉遣いをしてしまうんですね。

時に人の書いたものをそのままコピーして解説したりします。確かに文章的にはそのほうが判りやすいので初心者の理解も早いかもしれません。

でも私の言葉ではないんですよね。『台詞』ですもの。

それで初心者が感動したとしても、私に対して感動したわけではないんです。

 

 


やはり他人が書いたものよりは見劣りがするかもしれません、初心者にはとっつきにくい印象をもたれるかもしれませんが、自分自身で体験したこと、体得したこと、そして自分自身で言葉をつむぎだしたもの。そういう本当に自信を持って『自分の言葉』と言い切れるものだけを参加者の皆様にも提供しなくちゃいけないなと思った次第なのです。だってナマの体験を聞きたくて参加されているんですものね。

 

このブログもなるべく自分の言葉で伝えるようにしていきたいのですが、なにぶん才能が無いために先達の文章を拝借する事しきりです。理想には程遠いかもしれませんが、これも成長途中の姿だと受け入れていただいて、温かい目で見守っていただけたらと思います。←最後は自己弁護かよ?

 

参考および引用・・・『私はどうも死ぬ気がしない』、『長生きは300文の得』