そろそろ「またか!」って思い始める頃ですよね。とりあえず今日で締めます。
「雨ニモマケズ」の詩はどの部分をとっても私たちに生きる希望を与えてくれると思うのですが、特に私が大切だなぁとおもう箇所は、やはり一番最後の部分です。
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サフイフモノニワタシハナリタイ
と言うことですね。詩の中盤くらいまでは賢治の想像する「菩薩道のあるべき姿」のような勢いのあるフレーズが並んでいましたが、エンディングではずいぶんしぼんできました。
みんなに「でくの坊」と呼ばれたい。とあります。ちなみに「でくの坊」とは、そこにいるだけで何の役にも立たない人の事を馬鹿にして表現した言葉です。何故そんなものになりたいのでしょうか。
私の考えるところの、エンディングのつぶやきはまさに賢治が直面していた事実、つまり理想を掲げたものの実際はまったくそれとかけ離れていることを自覚すること。つまり「凡夫の自覚」を表しているような気がするのです。
宮沢賢治の中には、法華経だけでなく、実家が信仰していた浄土真宗の教えも根を張っていたものと考えられます。
浄土真宗の世界観は一言で表すと「仏になるのは非常に難しい。だから阿弥陀如来の救いにすがって生きていく」と言うものです。これが賢治の中にあった「凡夫の自覚」、つまり「菩薩道に向かいたいと願ってはいるけれど、結局自分は無力で何も出来ない存在なんだ」と言う思想をはぐくんだのだと思うのです。
理想を掲げながらも結局何者にもなりえない情けなくてふがいない自分、そんな等身大の自分の存在に気づいたとき、自分の姿が「でくの坊」と二重写しになったのではないでしょうか。
「この世で努力して、この世で救われる」という法華経の世界観。
「阿弥陀様におすがりして、あの世で救われる」と言う浄土教の世界観。
賢治の中では、このような両極端の世界観が支えあっていたのです。そんな二つの間に揺れ動く葛藤が、あの「雨ニモマケズ」に奥深さを与えているような気がします。
昨日の記事でも紹介しました、仮設診療所を開院した宮村医師も、上記のエンディング部分が大好きだと言っています。
人のために現場へ「行ッテ」実践することがまず大切であると言うことは昨日触れましたね。
そうして何か奉仕した後も、恩着せがましくなく、・・・と言いますか。普段は空気みたいな存在で、特別意識はしないんだけれども、居ないと困る存在でありたい。詩の中に登場する「でくの坊」はそんな賢治の有る意味理想の姿なのかもしれません。
私も出来れば、「でくの坊」のように押しつげがましくすること無く、皆さんの心にそっと寄り添っていけたらいいなぁと思いました。
以上で「雨ニモマケズ」再考を終わりにします。お疲れ様でした。
参考・・・「宮沢賢治 魂の言葉