『感謝即幸福』!! | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

私の尊敬してやまない大先輩の話であります。

腹腔内の腫瘍摘出と、大量の下血による輸血とでおよそ6時間半に及ぶ大手術から目覚めたH氏。

意識ははっきりしているものの、身動き一つ出来ない無力な自分に気づいたそうです。声も出ないのでナースに顔を寄せてもらって、搾り出すように要求を告げるのが精一杯でありました。

そんな状態でありながら、精神的にはいたって平安であったそうです。理性よりも心の底から自然に湧き出るような幸福感。しいて言葉にすれば『すべてをゆだねきった平安さ』とでも呼べるものでありました。


森田先生の言葉の一つに『努力即幸福』と言うのがあります。私(H氏)は今回の入院生活で、しみじみと『感謝即幸福』と言うものを体験できました。

のどがからからに渇いてたまらないときにナースを呼ぶと、看護婦が飛んできてうがいをさせてくれる。仰向けの姿勢に疲れると、横向きにしてくれる。背中が痒いと、蒸したタオルで拭いてくれる。そのつど私はいいしれぬ心地よさを感じました。いやな顔一つせず介護してくれる看護婦さんに感謝の念とともに自然に「ありがとう!」と言う言葉が口をついで出てきました。


この幸福感は、それまで私が考えていた幸福とか幸福感とはどこか違っていました。それまで私が考えていた幸福は、もっと精神的な向上を認めるもの、もっと人生に意義の感じられるものでなければなりませんでした。それこそのどの渇きが癒されたくらいでは、幸福の名に値しないと考えていました。

この発見は私にとって貴重でした。もしかすると私は幸福の原点とも言うべきものを経験していたのかもしれません。それは生まれたばかりの赤ん坊が母の胸に抱かれているときの安らかさであり、幸福感です。

きんみずひき


家族に対する思いにも、新たなものがありました。妻と息子が毎日病床を見舞って、洗濯物を交換してくれたり、手紙類を持ってきてくれます。息子は多忙の中、大学の講義が終わってから車を飛ばしてきてくれる。妻は弁当持参で私の昼食の世話もしてくれる。妻ももう70歳を超えています。しわの増えた顔を見て「苦労掛けているな」と言う思いと、ありがたさが重なり合います。「ありがとう」、「ご苦労さん」と言いながら、こうした家族に恵まれた幸せをしみじみかみしめるのであります。


森田先生の『努力即幸福』と言うのは、私たちが一つの課題達成に向かって努力を集中しているとき、心身のあらゆる機能は調和を保って最高に発揮されます。人間は持てる機能が十分に発揮できるときに、生きる喜びを感じるものです。つまり、すべての機能が最高に発揮されるときがもっとも幸福な状態であるということです。

『努力即幸福』を能動的、積極的な幸福感とすれば、『感謝即幸福』は、消極的、受動的なものといえるかもしれません。しかし人生にはいろいろな局面があり、幸福感もまたさまざまあってしかるべきでありましょう。


集中治療室で感じた無力さの自覚が、私の心の中から自分の力に対する過信、傲慢さと言ったものを追い出してくれたのでありましょうか。だがいつまたこの過信や傲慢さが戻ってくるやも知れません。油断は禁物ですがあの『感謝即幸福』の体験を忘れない限り、当面は過信や傲慢さは寄り付かないだろうと言う気がいたします。しかしこんなことを書きながら、心の片隅で「大丈夫かな?」と危ぶむ声もしないではありません。

つりがねそう


実は私(柴@栃)も傲慢極まりない人間でした。人に何かしてもらってもそれが当然だと思っていたし、しかもそのやり方が気に食わないときにはしてもらった人を呼び出して叱責する始末です。

そのくせ自分ひとりでは手に負えないようなピンチに陥ると、すぐ周囲に助けを求め、助けてくれない時は周囲の人を恨み倒して悪者にしてしまうという、まったく救いようのない人間でした。

アレから30年近い歳月が流れました。


今は言い切れないほどの『ありがとう』に囲まれています。はじめは些細なことでした。自分の投げたゴミがくず入れに入らなかったのを拾ってくれたとか、途中でボールペンが書けなくなったのを見て、自分のを貸してくれたとか、そういうちょっとした事を見逃さずにタイミングよく『ありがとう』と言い始めてみたのです。

すると不思議ですね。今まで自分の事しか考えていないと思われた同僚たちが、意外と周囲の人たちの事を考えて動いてくれてるんだなぁと言うことが読めてきたのです。

さらに不思議なことに今までは同僚や部下の欠点ばかりが見えていたのに、むしろ長所、いい所がクローズアップして見えるようになってきたのです。まるで「いいとこめがね」で周囲を見ているようです。


今回は『感謝』と言うことについて記事を作ってきました。もちろん私にとって『感謝』は永遠のテーマであり、毎年年頭に当たっては取り上げて行きたいと考えています。

それ以外でも時々気が向いたら取り上げてみたいと思います。

『幸福』になれば『感謝』が出来るものとは限りません。

『感謝』が出来るようになれば『幸福』になることが出来ます。

なぜなら『感謝即幸福』だからです。


参考・・・生きる工夫(白揚社)


なお、文中に挿入した花の画像(きんみずひき、つりがねそう)は両方とも花言葉が『感謝』であります。