"なりきる"体験、あの人の場合・・ | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

ある有名な方の自伝的読み物を読んでいたら、ちょうど今のテーマである"なりきる"体験そのものの記述がみられましたので、ここに紹介いたします。

もちろんこの方は、森田療法はご存じないと思いますが、人生の達人が自らの経験に基づいて得た人生哲学と言うものは、おのずと森田療法の目指す道に近づいてくると言うことでしょうか。

 

ちょうど夏真っ盛りの事でした。二百年前に建てられたというお寺の本堂の中央に、電燈をひとつつけるという仕事を命じられました。

まずは天井裏に配線をしました。隅のほうから天井板をめくって上がると、そこは暗黒の世界です。しかも真夏の事ですから熱気がむっとしています。屋根が焼けているのが判ります。その上をろうそくを灯して歩くと、そのたびに二百年分のほこりが舞い上がります。

 

汗は出るし、息苦しいし、これはかなわんなと思いましたが、当時は若かったせいで、配線の工事を始めると集中し、そういうことは一切忘れてしまいました。そして暑さやホコリと言うものが、それほど苦にならないまま仕事が済んでしまったのです。

そうして配線を終えて天井から戻るとき、彼は言うに言われぬ爽快感を味わいます。それはまるで地獄界から天上界へ出たようでした。・・・(中略)・・・



このようにして、何か困難で苦しいようなことがあっても仕事に集中していれば、それを忘れることが出来ること、それが終わった後は非常に嬉しいものであると、彼は身をもって体験したのです

このとき、天井裏は暑くてホコリっぽいからイヤだ、やりたくないと言うことばかり考えていたらどうなっていたか。

彼は後に次のように述懐しています。

 

「かえって仕事がはかどらなくてイライラしていたかもしれない。あるいはいい加減な仕事でごまかしておくと、後で故障などが起き、また天井裏にあがらなければならなくなるかもしれない。だから暑くても、苦しくても、自らの仕事に没頭し、やるべきことはちゃんとやっておくことが大切であると思う。

そうすれば暑さや苦しさと言ったものは、しばらくは忘れることが出来るし、仕事も能率的に進んで、結局は心身ともに得すると言うことになるのではないか。」

 

実は、この話の主人公は、あの松下幸之助氏です。

このエピソードは彼が事業を興す前の十代の頃の話です。

松下氏が6年にわたる小僧奉公をやめて、電燈会社で配線工として働いていた頃です。電気工事というものは非常につらい仕事です。しかしいったん命じられた以上は、暑かろうが寒かろうが、どんなに汚い場所や危険な場所であっても、仕事はやらなくてはなりません。

 

気の進まない仕事を命ぜられたとき、「良し! やってやるか」と、燃えてくる人はいいのですが、たいていの人は「いやだなぁ」と思うことでしょう。

ただ、最初から前向きな気持ちになれないまでも、憂鬱に感じない方法があります。それがここに紹介した『目の前の仕事に集中してみる』と言うことではないでしょうか。

 

森田ではこのような体験を"なりきる"と言う言葉で表現しています。このエピソードを森田流に表現すれば、松下幸之助氏は、この瞬間、まさに仕事になりきったのである。・・・と言うことになりましょうか。

当の森田先生もさまざまな"なりきる"体験をしています。皆さんにもイメージしやすいよう、登山の体験例を紹介いたします。

 

富士登山をしたときの体験である。私は前の日から下痢をしていたが、六合目まで家族と登って来たときに、持病の喘息が起き、それ以上登れなくなった。一同と別れ、五合目の宿に強力を連れて向かった。途中雨は降るし息も苦しい。山道は下るかと思えば登ることも多い。ついにすべての想像、予断を立って、これから先何万歩あるか。永久に歩くつもりで足元ばかりを見て、歩数を数えながら進んでいった。

ふと気がつくと岩室があり、そこが目的の五合目の宿であった。このときにはすべての苦痛を忘れてしまっていた。ただ永久に、足に任せて歩くと言う気合があるだけであった。

 


これが森田先生の『現在になりきった』体験です。

そもそも"なりきる"とはどういう定義があるのでしょうか。森田先生の言葉を使えば"なりきる"とは、「人生の向上的欲望に対して、常に心がけ、あこがれながら目的を見失わず、あせるでもなく悲観するでもなく、その現在の及ぶ限りのベストを尽くしている状態。」・・・だそうであります。

 

別のところでは、「・・・なんでも良い。その現在の境遇から逃げる考えを興しさえしなければ良いのである」とも言っています。う~ん、もう少し具体的な説明がほしいところですね。

私が思うに、現在に"なりきる"為には、不安の中にそのまま浸かっている状態とでも言いましょうか。不快な感情を感じたままの状態と言いましょうか。なんか字面だけを見ますと、すごく恐ろしいような感じがするでしょうね。不安の中に浸かっていたら、それこそどうにかなっちゃうんじゃないかとか・・・

 

もし私が"なりきる"ことはどういうことですか? と、聞かれたら、こう答えると思います。

『つらい気持ちを抱えたまま、惨めな気持ちを抱えたまま、そのままその場に居ること。逃げないということ』、これに尽きると思うのです。例えば雑談恐怖の私だったら、とにかく必要があればその場に居ること。そしてそばに居る人との会話を大事にすること。別に座を盛り上げる必要はありません。とにかく話を聞いていること。そしてみんなが笑ったら一緒に笑うこと。このようにして居続けることで、感情も状況も変化していくものであると、実体験することが、大切なんじゃないでしょうか。

 

以上の説明で、なんとなくイメージしていただけたでしょうか。

くれぐれも念を押しておきますが、"なりきる"と言うことは、我慢することとは違います。

我慢とは、不快な感情に注意を集中していることであり、感情的な"逃げ"であります。我慢が苦しいのは、まさしく現在に"なりきっていない"状態であるからです。

 

参考および引用・・・PHP『人生で大切なこと』

          ・・・森田正馬全集5巻