飯盛権現跡と卵塔 | 稜山泊

飯盛権現跡と卵塔

相浦富士の過酷な登山の後、下山で膝を痛めないようにと降りてきたのですが、思ったよりも疲弊していませんでした。そこで、予定通りに登り始めで見かけた「飯盛権現跡」を見ることにしました。


 登り始めに説明した分岐点から20m程度でしょうか。間もなく、飯盛権現跡が姿を現しました。1月2日の「三社参りの後」で説明した愛宕山を山城とした飯盛城。平戸松浦を迎え撃つべく城を構えたのですが。受けて立った宗家松浦氏は、敢え無く落城。その戦いで犠牲となった者を慰霊する為に創られたと記されています。壮大な山城の一部としては、とっても小さいのですが、500年もの歴史が残したものが僅かに残ったとも言えます。
 現在は、「ここは私有地です」と注意書きがされていました。来られる方はご注意を。ここに来るまでに、この先に「卵塔がある」と出ていました。ここから先、登ったり下ったりは辛いなと思いつつ。


 「高僧墓無縫塔(卵塔)」というものらしいです。無縫塔とは、僧侶のお墓。卵型の墓石となるので、卵塔とも言うというそうです。この地は、元々は、今の本山町付近に有った新豊寺を飯盛城の当主 松浦親が飯盛城の近くのこの地に洪徳寺として移設させたというのです。飯盛城落城の後も、この地で洪徳寺として続いていたそうです。
 現在の洪徳寺は、明治時代の神仏分離令で新しく建てられたとか。そう、これが飯盛城と洪徳寺の関わり。だから、飯盛城が有った相浦富士(愛宕山)の登り口は、洪徳寺が正門で間違いなさそうです。


 入り口の案内を見ると、飯盛権現堂の方向に元の飯盛神社があった場所と記載があります。歴史を紐解くと面白い。
 愛宕山の顔に見える「飯盛神社」は、飯盛城が落城した後に出来た飯盛権現堂を祀って出来た。飯盛城の当主 松浦 親が洪徳寺を建てて、菩提寺とした。飯盛権現堂の近くに並んで建てられていたと解説があります。
 年代順に並べるとまず、松浦親は、洪徳寺をこの地に建立した。そして、落城後に出来た飯盛権現堂は、洪徳寺の近くに建てられた。その飯盛権現堂が飯盛神社となったということが伺えます。洪徳寺も飯盛神社も、明治時代の神仏分離令で現在の地に移転したのでしょう。
 もう一つ、愛宕山の山頂に有るのは、正式には「愛宕勝軍地蔵尊」といいます。なんと、飯盛城を落城した平戸松浦藩主隆信導可公が、落城後に建てた地蔵尊。平戸藩祈願寺の東漸寺のその政を委ねたとのこと。
 戦国時代の世では有るのですが、宗家松浦氏を執拗に攻めまくった平戸松浦氏は印象的。私が住む大野地区辺りでは、常に付いて回ります。愛宕山登山記おわり。