2月3日(土)
節分のため【龍泉寺】へ。
JR大曽根駅で下車をして、ゆとりーとラインへ。
2回目のゆとりーとライン。
先行バスが行ってしまったので、
次発35分のバスに乗車。
市バスとは異なり、後ろのドアから乗車。
乗車口の内側に整理券発行機から整理券を取るか、ICカードのをタッチ(ICカードの場合、乗車時のタッチが整理券代わりになるので、整理券は必要ない)する。
【龍泉寺口】で下車。
(乗車賃:320円)
2024年2月3日の節分では、「尾張四観音」の一つである名古屋市守山区にある「龍泉寺」が今年の方角の東北東にあたり、恵方節分のお寺。「尾張四観音」とは観音様を本尊としておまつりしている「荒子観音寺」「龍泉寺」「甚目寺観音」「笠寺観音」の4つの寺院をあらわした名称のこと。尾張四観音の節分恵方は、「笠寺観音」→「龍泉寺」→「荒子観音寺」→「笠寺観音」→「甚目寺観音」と5年周期で巡る。
途中、行列ができており、なんの行列かわからず取り敢えず並んでみる。その間、旦那さんが偵察し行ってくれたが、行列の先が遠すぎて引き返してきた。
この行列、参拝のための行列だった。
やっと、本堂が見えてきた。
龍泉寺
伝教大師最澄が創建したと伝えられている。宝暦5年(1755)に記された古文書「龍泉寺記」には、「その昔、伝教大師が熱田神宮に参篭中、龍神の御告げを受け、龍の住む多々羅池のほとりでお経を唱えると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀った」と記されている。ここから「龍泉」の名がついたとも言われている。
天正12年(1584)、龍泉寺は豊臣秀吉が小牧長久手の役にて退却するとき、池田勝入の部下により放火焼失の憂き目に遭いました。慶長3年(1598)、秀純大和尚が堂塔を再興。明治39年(1906)に再び放火に遇い、多宝塔、仁王門、鐘楼を除くすべてが灰燼と帰した。しかしその焼跡から、慶長小判が100枚発見されます。これと寄付をあわせて現在の本堂が再建された。
一方、弘法大師空海も、熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納したといわれ、これより龍泉寺は『熱田の奥の院』とされてきた。
「60年に1度のパワースポット」として、注目の龍泉寺。
十二支で辰(たつ)年であることに加え、「尾張四観音」の中で今年の恵方の東北東に当たり、一層の御利益があるとして例年以上にお参りする人が増えている。
引用:中日新聞
龍泉寺城
奥に見える模擬天守(宝物館となっている)。
この模擬天守は、【龍泉寺城】
守山区唯一のお城として昭和39年に現在復元。もとあった位置についてははっきりしていない。弘治2年(1556年)織田信長の弟、信行によって築かれた。
現在は宝物館として多数の寺宝が展示されている。
日曜・祝祭日のみの開館。
開館時間:午前9時から午後3時
現在は宝物館として多数の寺宝が展示されている。
日曜・祝祭日のみの開館。
開館時間:午前9時から午後3時
料金:100円
鐘楼堂
※立ち入り禁止の札がでていた。
平和の鐘は幸福の鐘とも呼ばれている。
悩み事、辛い事、悲しい事など、いろいろな思いを背負って来られました方々が幸福の鐘をつく事によって心の重荷が少しでも軽くなるように、鐘楼堂から一歩出た自分が新しい自分に、すなわち「次の私に」になってお帰ることができるように、との意味が込めてあるそう。
悩み事、辛い事、悲しい事など、いろいろな思いを背負って来られました方々が幸福の鐘をつく事によって心の重荷が少しでも軽くなるように、鐘楼堂から一歩出た自分が新しい自分に、すなわち「次の私に」になってお帰ることができるように、との意味が込めてあるそう。
「でんわ でんぽう」と書かれたレトロな看板を発見。
アクセス :
●ゆとりーとライン「竜泉寺口」バス停下車。徒歩3分
※2月3日は増便いたします。
●名鉄瀬戸線「小幡」駅下車。市バス「守山」行きに乗り換え、「小幡緑地」バス停下車。徒歩7分
●名鉄瀬戸線「小幡」駅下車。市バス「守山」行きに乗り換え、「小幡緑地」バス停下車。徒歩7分
※福木・福餅投げはおこないません※ご祈祷後の豆撒きはおこないません
再见!