8月18日(金)
13:20
学生のころ、授業の一環で応募をしたことがある。
観光スポット情報
一筆啓上 日本一短い手紙の館
住所 : 〒910-0231 福井県坂井市丸岡町霞町3丁目10番地1
電話番号:0776-67-5100
丸岡城
福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城である。別名「霞ヶ城」。江戸時代には丸岡藩の藩庁であった。現存12天守の一つ。
国の重要文化財。
天守は本丸南西部の最高所に位置し、高さ約6.2mの野面積みの石垣の上に、二重三階、高さ約12mの独立式望楼型天守。
かつて丸岡城の周りには全国的に見ても珍しい五角形の内堀が掘られていた。外郭には侍屋敷を配置し、さらに河川を利用して外堀を設け、寺院や民家を包容して城下町を形成していた。
しかし、明治以降にそれらの内堀が埋められたが、天守の最上階からは特徴的な五角形の内堀が一望できる。外堀の一部は用排水路として現在もその面影が残っている。
現存する丸岡城天守閣は柴田勝豊が築城した際建てられたものとされ2重3階の独立式望楼型、入母屋、笏谷石製の石瓦葺、日本最古の天守閣とされ昭和9年(1934)に国宝に指定されたものの、昭和23年(1948)の福井地震で倒壊、昭和25年(1950)に国指定重要文化財に指定され昭和30年(1955)に残った部材で再建している。丸岡城は日本100名城に選定され周囲は霞ヶ城公園として整備され、桜の名所100選にも選定されている。
鯱(石製しゃち)
この鯱は、もと木彫銅板張りであったものを、昭和15年~17年の修理の際に、石製の鯱に改めたものです。その当時は戦禍中で銅板の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で、つくりかえられたもの ですが、この石製の鯱も昭和23年六6月の福井大震災により、棟より落下、現在の様な形で残っているものです。
現在天守閣の上にのっている鯱は、昭和27年~30年の修復時に、もとの木彫銅板 張りに復元したものです。
勝豊以降、安井家清、青山修理亮(しゅうりのすけ)、同忠元(ただもと)、今村盛次、本多成重以下4代、有馬清純(きよすみ)以下8代の居城を経て明治維新となった。現在は本丸と天守と僅かに石垣を残し城域は公園となっている。
丸岡城天守の特徴:
- 石瓦葺きの屋根で、およそ6000枚以上の石製の瓦が使われている。
- 天守では珍しい阿吽一対の石製鬼瓦
霞ヶ城の由来となる「雲の井」
丸岡城を支える石垣は”野づら積み”。すき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれている。
最古の現存天守…じゃなかった
丸岡城は、現存する日本最古の天守閣として知られていました。
戦国時代の築城とされてきた福井県坂井市の丸岡城天守(国重要文化財)について、江戸時代の寛永年間(1624~44年)に建てられたとみられることが、坂井市教育委員会の学術調査でわかった。
2015年度から調査を進めてきた。市教委によれば、現在の天守の柱や梁(はり)など主要部材について、年輪、放射性炭素、酸素同位体比の三つの年代調査を実施。1948年の福井地震で天守は倒壊したが、主要部材の多くが江戸時代の1620年代後半以降に伐採されたことが明らかになった。このため、調査委は寛永年間に丸岡藩初代藩主の本多成重(なりしげ)が整備したと結論づけた。
丸岡城天守の創建年代については、主に織田信長の重臣だった柴田勝家のおい、勝豊(かつとよ)による天正4(1576)年説と、本多成重が入城した後の慶長18(1613)年以降説が唱えられ、市もホームページなどを通じて最古の天守とPRしてきた。だが、文化庁によると、1592(文禄元)年築とされる松本城乾小天守(いぬいこてんしゅ)(長野県松本市)や、1601(慶長6)年築とされる犬山城(愛知県犬山市)など寛永年間よりも前に築城された天守が存在し、丸岡城を「最古の天守」とみることは難しくなった。
引用:朝日新聞デジタル,堀川敬部2019年4月4日 11時05分
観光スポット情報
丸岡城
住所 : 〒910-0231 福井県坂井市丸岡町霞町1−59
電話番号 : 0776-66-0303 (丸岡城管理事務所)
営業時間 : 8:30〜17:00(最終入場は16:30)
定休日 : 年中無休
料金 : 大人:450円、小中学生:150円
トイレ : 丸岡城天守内にはありません。丸岡城外駐車場及び一筆啓上茶屋内にあります。
■ 駐車場
一筆啓上茶屋前駐車場 : 無料
一筆啓上日本一短い手紙の館北駐車場:無料
再见!