2022.10.16 3年ぶりに開催された大須大道町人祭 | Wuxi-chanの雑記note "~なるようになるさ~(「無錫note」から変更)

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2018年1月に20数年勤めてきた会社を辞め、翌2月に無錫での生活へ。ここでの生活、自分専用のノートとして書き留めることにしました。

2020年1月末、春節で一時帰国から本帰国となる。
5月末に本帰国辞令。9月末に主人が帰国となる。2021年から日本で新生活をスタート。

 
10月16日(日)
 
名古屋まつりに行ってきた(15日~16日)。3年ぶりの開催だそう。
 
 

 

 大須商店街 大須大道町人祭

 

こちらも3年ぶりの開催

 

 

大須の花道

 

名古屋まつり「郷土英傑行列」のフィナーレを飾る「大須の花道」

 

 
 

 

 

大須商店街 隠れ名所

東仁王門通り

箪笥のばぁば

 

 
 
 

体に触ると一生着るものに困らないと言われているんだとか。着る物が高価だった時代に作られたタンスの守り神。

 

 

日本で最初に行われた大道芸のイベントが「大須大道町人祭」

 

 

 

 
毎年10月に行われる「大須大道町人祭」は、官製のお祭である「名古屋まつり」に対抗してはじまった〈市民のための市民による〉お祭。昭和53年、戦後の都市計画からはずれ廃れかけていた大須の街に、かつてのにぎやかで楽しい大須を取り戻すため、街の人々は立ち上がりました。第一回大須大道町人祭は1978年10月14日、15日の二日間行われ、「名古屋まつり」と同日開催にも関わらず、50万人もの人出となった。
 
 

 

 

大道芸人さんのスケジュール
 
 
17会場でパフォーマンスが行われる。
 
 
 
全国で活躍する大道芸人を一堂に見ることのできる唯一の祭り。
15日・16日の2日間に、全国からパフォーマー250人が集結した。
 
 
 
一度も見たことがない

おいらん道中

 
おいらんが見たくウロウロ。スケジュールの時間を確認をしたら、もう終わった思ってあきらめていた。
 
16時過ぎ、たまたま通ったら人だかりが。
 
待っていても、こっちに来る気配がない…

 

 

で、ここがゴールだった。

 

 

 

 
 
写真:冊子より
 
花魁道中の花魁は、大きくて重いげたを履き、「八文字」と呼ばれる歩き方をする。
花魁の歩き方は八文字で歩き、習得に3年かかる。
 
この「八文字」歩き、2種類あり、「内八文字」「外八文字」がある。
特に「外八文字 」は
外側から大きく足を踏み出すため、派手な印象を与える歩き方。
下駄の裏を見せるようにするのが外八文字の歩き方となっている。
この外八文字は非常に難しく、習得するのに最低でも3年はかかる
 
 
写真:冊子より
 
 
 

 

  花魁の世界

 

ちなみに、花魁って華やかイメージですが
 
花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。現代の高級娼婦、高級愛人などにあたる。
 
18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造(下級遊女)などの妹分が、姉女郎を「おいらん」と呼んだことから、上位の吉原遊女を指す言葉となった 。
 
実は、花魁になるには、花魁に付き従う遊女見習いの禿(エリートコース)になること。ただし10歳以下。禿とは、幼い頃に妓楼入りし、先輩遊女(姉遊女)に付きながら吉原遊郭のあれこれを覚え、ゆくゆくは遊女になる少女のこと。超高級花魁付きの禿の場合、花魁道中にも付き従う。
 
花魁は美貌だけでなく、教養を備え、芸事にも秀でていることが必須だった。
花魁になるための稽古は、
茶道、華道、香道、書道、書画(墨絵)、和歌、漢詩、囲碁、将棋など。歌舞音曲面では琴や三味線、唄、舞踊のほか胡弓、鼓も。
 
 
どこの世界でもそうだけど、
 
結局、バカではなれない…ということ。
 
 
花魁道中は、元は花魁がなじみのお客様を迎えに行くために、茶屋や揚屋の行き帰りなどで美しく着飾って歩いたのが始まり。遊郭の高級遊女である”花魁”が、お客様を迎えに行く”道中”ということが、花魁道中という名前の由来。
 
 
見習いの禿(かむろ)や、遊女の妹分である若い遊女の新造(しんぞ)、その他にも大勢の妹分などとりまきを花魁を従える。
馴染み客を迎えに行くだけだが、これは花魁の威厳を保つためのものとされ、しきたりとされてきた。
当時は最高格の花魁と会うだけで今でいう数十万円が必要でした。
その他にも花魁の揚代、芸者や祝儀、酒代など一晩40両(約300万円~500万円程度)支払うことも。
 
客は大金を払い花魁道中を行うことによって周りから優越感を味わい、花魁もお金持ちの上客が増え、周りにアピールできるとし、どちらにもメリットのある行為だった。

 
 
花魁って、結局は幼くして借金のカタなどで親に身売りされた少女たち。
身売りされる年齢は、幼女の場合は7~8歳(時には5~6歳)、もう少し大きくても10代前後の少女。値段も違うんだとか。
 
 
ちなみに、吉原にはこんな原則があり、

年季は最長10年、27歳(数えで28歳)
で年季明け
 
つまり、最長10年間妓楼で働き、27歳になったら晴れて自由の身になれる、というわけ。
 
食事は質素だったと聞いています。売れっ子なら問題ないのですが…そうでない子はたいへんだったと聞いています。
 

かなり過酷な毎日で、正式な休みも正月と盆の年2日だけだったとか。

 

めっちゃブラック企業

 

そして、病気に罹って亡くなった方が多かった。

 

ここから抜け出すには、金持ちのお客さんにお金を払ってもらって妓楼から出してもらうこと。

これを「身請(みうけ)」という。
 
必要とされた身請金は下級クラスの遊女でも40~50両(現在の金額でおよそ400~500万円)、中流クラスの遊女なら少なくとも100両(およそ1000万円)、トップクラスの花魁ともなれば1000両(およそ1億円)以上もの身請金を払ったという例もあるんだとか。
 
 

 

身請されない花魁の最後

 

花魁の悲惨さ、強いて言えば誰からも身請けされず(身代金と借金は相当なものなのでそんな大客と出会えるかも運)年季が明けても借金を支払え終えず、花魁の位を降ろされ「番頭新造」として花魁の雑用をする(原則お客はとらない)もしくは「遣手(やりて)」として遊女の監視・管理係となるか、切見世(きりみせ)(夜鷹)に見世替えするかのいずれかの道しか残されていなかった。
 
泣く泣く実家に帰ったとしても、歓迎されるどころか「もう居場所はない」と迷惑顔をされ、結婚してただの“おかみさん”として暮らしたいと願っても、三味線や琴は上手でもロクに家事もできず、中絶の繰り返しなどにより子どももできにくい元遊女と結婚してくれる相手がいない……という現実があった。

 
 
 
 
 
 
 
 再见!