AMAGAI
A:あんまりこういうの得意じゃないけど
M:まっすぐな気持ちで表現する
A:雨谷拓矢の水泳人生もそろそろ
G:ゴールが近づいてきた
A:ありがとうの気持ちを
I:色々な人に届けたい
TAKUYA
T:楽しいことも辛いことも
A:あったよ、色々と
K:この15年間の想いを詰め込んだ最後のいにしゃるとーく
U:上手く伝わるかわからないけど
Y:やっぱり水泳やってて良かった
A:あとはみんなと笑顔で終わりたい
こんばんは。
4年のAまがいTくやです。
タイトルに名前出てるから誰だかバレバレだよね。笑
今回は最後のいにしゃるとーくということで、私の水泳人生と、思うこと全てを語っていこうかな。
4年生のしょっぱなって難しくない?笑
長くなると思うけど、なかなかこんな風に語る人間ではないってのをふまえて、最後まで読んでくれたら嬉しいな。笑
飽きたら途中飛ばしてもいいから、最後の方は読んでほしい。
~~~~~~~~~~~~~~~~
まず、水泳を始めたきっかけについてなんだけど、2000年のシドニーオリンピックで競泳を見て、「水泳って面白そう」と思ったから。
その中でもオランダのピーターファンデンホーヘンバント選手が100m自由形で優勝したときのあの爽やかな笑顔が今でも忘れられない。
自分もこの選手みたいにかっこよくなりたいと思ったの。
(正直、始めたきっかけはいまいち覚えてないから、自分なかでは上のように仮定しておく。笑)
そして、地元の某スイミングスクールに通い始め、もともと泳げたのに水に顔をつけるところからスタートだったから、スイミングスクールを変えて、そこで中学までお世話になることに。
小学2年生になる頃にそのスクールに通い始め、2ヶ月で育成コースに呼ばれ、本格的に競泳への道がスタート。
平泳ぎとバタフライを習う前に育成コースに呼ばれたから、練習で泳ぎ方とかわからなくて、見よう見まねでなんとか泳いでたっていうね。
そんなこんなで半年が過ぎ、選手コースに上がる。
そこで出会ったのが私に競泳を教えてくれた恩師。
練習もきつくて色々と厳しかったけど、当時とても負けず嫌いだったから、必死になって食らいついてた。
練習中よくゴーグルの中で泣いていたのを今でも覚えてる。笑
がむしゃらになって頑張っていたら、コーチから「大阪に行けるぞ!」と突然言われた。
某グループの全国大会のことで、毎年大阪で行われていて、選手コースになってから1年もたたないうちに、気づいたらそのレベルまでなってた。
初めて出る全国大会で、運良く2位になることができ、周囲も自分もびっくり。(50m背泳ぎ)
その大会の少しあとに、コーチがいきなり「JOに出れるぞ!」と、テンション高めに言い出し、「JOってなんだよ」と心の中で思ったのを覚えてる。笑
JOとは皆さんもご存知の通り、ジュニアの全国大会のこと。
その大会の存在すら知らない状況、水泳を初めて約2年という驚異的なスピードで、全国への切符を掴むとかいう漫画の世界みたいな話。笑
初めてのJOは出るだけといった感じの結果で、めちゃくちゃ速いやつらに「こいつらすげぇ」と感心してしまうほど。
だけど負けず嫌いだったから、そいつらに勝ちたいと思って、そのあとめちゃくちゃ頑張った。
小学4年生の夏のJOはメドレーリレーで2位になって、春のJOでは個人(50m平泳ぎ)で3位だった。
ここまで驚異的なスピードで成長してきたので、試合に出るのが楽しくて楽しくてしょうがない感じ。
このままいけば将来オリンピックにもいけると思っていたくらい。笑
でも、小学5年生の5月くらいに膝を痛めて、初めて挫折を味わった。
今まで順調すぎるくらいにきてたから、余計に泳げないもどかしさや辛さを感じる。
その後は、JOにずっと出場はしてたけど、メダルを取ることも決勝に残ることもなく、水泳がどんどんつまらなくなっていった。
その頃、スイミングのグループ内で恩師が移動になり、まだまだ幼かったこともあり目標を見失い、中学に上がるときには本気で水泳を辞めようとも思ってた。
それでも辞めなかったのは、親に言われた言葉と、水泳を通じて出来た親友がいたから。
親からは「辞めたければ辞めたらいい。ただ、そんな中途半端な気持ちなら何やっても一番にはなれないよ。」と。
子供の性格を一番に理解している親なので、当時はむかつきましたが、今では「性格を上手く利用してよく続けさせたなあ。」と感心してるくらい。笑
親友は神奈川県の地域が同じで、地区大会から県大会・全国大会でも常に一緒にいるような仲で、幼い頃から全国で優勝するなど自分にとっては彼に追いつきたいという想いがあって、頑張っていた。
そんな親友から「一緒にオリンピック行きたい。」と言われ、その言葉を聞いたときに、認めてもらえた気がして、嬉しくて、頑張ろうって思った。
恩師の元へ移籍もして、また新たな気持ちで中学でも水泳を続けていった。
中学1年のときは全然結果も出かったけど、その移籍先に全国大会で優勝するような偉大な先輩(SおうらSんりさん)がいた。
今でも日本の競泳界を引っ張る存在で、当時からここぞというときの集中力と、目標を明確にして速くなるための努力をしてた。
その先輩は高校に上がるときに移籍しちゃったけど、この1年で多くを学んだと思う。
そして、中学2年の夏、全国中学ではスタートをミスし予選敗退で悔しい思いをしたけど、その後のJOで初めて全国優勝できて気持ちよかった。(50m平泳ぎ)
さらに、100m平泳ぎで日本準強化選手(通称ナショナル)のタイムを突破し、冬には同年代の全国で速いやつらが集まるナショナル合宿に参加した。
ナショナル合宿では本当にレベルの高い選手ばっかりで、自分の甘さを痛感させられた。
そして、練習への取り組み方やケアの大切さ、栄養や休養のことなど事細かく学んだ。
その合宿でとても印象に残る2人の人物と出会いもある。
1人は大学の後輩でもあるSとDいや。
彼は当時からすごい前向きで、人懐っこく、とても可愛いやつだなという印象。
そして、2人目は大学の先輩でもある女の選手。
その人の何が印象的だったかって、めっちゃ可愛かった。笑
シャイだったから、話しかけることもなく、誰かに話すこともなく、陰から見ているだけだったけどね。
この2人の話はまた後々出てくるよ。
その合宿も終わり、新たにモチベーションが上がり、中学3年の全国中学に向けて相当な努力を積み重ねたんだけど、全国中学では決勝には残ったものの、思ったような結果は残せなかった。
正直、自分の実力を出し切ればもっといけたはずだったし、不甲斐なさと悔しい思いでいっぱいだった。
その後は。初めて出場した国体では、偉大な先輩に囲まれた中でメドレーリレーに出場し、優勝。
千葉対抗戦では神奈川の同期とメドレーリレーを組み、中学記録を更新。
この神奈川代表として出場する2つの試合を通して、本当に神奈川チームの温かみを感じた。
この後、高校受験という進路選択の際に、大きな決断をする。
全国中学ではいい結果を残せなかったから、ずっと教わってきた恩師の元を離れて、違う環境で今までにない考え方を取り入れようと考えていた。
結局、学校練習という環境と勉強はある程しておきたいという思いから、桐蔭学園に進学を決意。
しかし、今まで本当にお世話になった恩師への想いは相当なもので、高校進学前に絶対に恩返しすると決めていた。
その想いが相当強かったのか、短水路で50mと100mともに中学記録を更新し、長水路でも50mで中学記録を0.6秒ほど更新。(平泳ぎ)
長水路の中学記録を更新したときは、長い間抜かれないだろうと勝手に思ってたら、次の年にDいやにあっさり抜かれたけど。笑
そんなこんなで私自身新しい環境でこの先の競技人生を期待して、高校に入学。
高校では朝練もあって、練習量も相当増え、勉強もそれなりにやらないとついていけないという感じで、慣れるまで本当に大変だった。
慣れてからも死ぬほどきつい毎日だったけどね。笑
入学してすぐの JAPAN OPEN で、中学最後の勢いそのままに50m平泳ぎで高校記録を更新し、「この環境ならもっと成長していける。」と思ってた。
高校の試合では、県大会から学校毎に総得点を競い合う対抗戦になってて、個人競技ではありながら、チームや仲間の大切さってのを学んだ。
今まで感じていた感覚とは違う感覚で競泳に打ち込むことはとても新鮮で、毎日が充実してた。
でも、インターハイの結果は100m平泳ぎ・50m自由形ともにギリギリのところで予選落ち。
400mリレーで決勝に残ってチームとしては盛り上がったけど、やっぱり個人で結果を残したかったから、悔しい想いをした。
その後の国体は50m自由形で3位には入ったけど、メドレーリレーで失格しちゃうという最悪の結果に。
正直、めちゃくちゃ責められても当たり前なことなのに、神奈川のみんなは責めることはなくて、成年の方が「お前らの分は俺らが取り返してやるから。」とか、コーチ陣から「この経験が将来に生きてくるよ。」とか、本当に心から優しい人が多い。
逆にその優しさに応えられなかった自分を強く責めたけど。
冬場の追い込みの時期には今までに体感したことのないくらいきつい練習が毎日続いて、無理って思ってたけど、「大好きな神奈川のチームに貢献したい。」って思いで必死に努力してた。
でも、桐蔭の新チームは監督と色々もめることがあって、雰囲気は最悪。
自身もこのチームのためには頑張れないと思っちゃった。
神奈川のチームのため、信じてくれている仲間のために、自分中心で練習をしてたんだけど、当然、夏にはチームであまりいい結果は残せず、自身もずっとベストを出せなかった。
なんでこんなきつい練習をしているのに試合ではベストがでないのか、水泳をしている意味がわからなくなって、本気で悩んだ。
高校2年の夏が終わって、悩んでる私を見て監督から「自由形の短距離をやってみないか?」と言われた。
平泳ぎでは全然タイムも伸びない中、きつい練習の毎日で私は水泳が嫌いになっていた。
もともと自由形の短距離はある程度の速さでは泳げていたっていうのもあって、この際気分転換に自由形で心入れ替えて頑張ってみるかと思った。
これが長年やってきた平泳ぎから自由形に転向したきっかけ。
でも、その専門種目を変える決断をするのと同時期くらいに、チームの主将を任されることになった。
自分のことでもいっぱいいっぱいなのに、チームのことまで考える余裕はない。
思っていた通り、新チームが始まり最初は本当にうまくまとめられなくて、さらには自由形のフォームもぐちゃぐちゃで最悪な始まりだった。
同期で何回もミーティングをしたけど、なかなか協力してくれる人はいない。
今思うと「そりゃ俺の中で方針とかやり方が定まってないのにのに、他人がチーム運営に意見出す方が難しいでしょ。」と思う。笑
どっちつかずの中途半端な時間が流れ、「俺には無理なのかな。」って思っているときに、あるOBの方が「言ってわかってもらえないなら、やって見せてみたら?」とアドバイスをくれた。
最初は「何も言わないで俺だけやっても無駄だろ。」と思いながらも、自分が何でもかんでも先頭に立ってやるように心がけた。
そしたら、同期もミーティングで意見をくれるようになり、後輩も練習で声を出すようになり、だんだんとまとまりが出てくるようになった。
「こんな簡単なことなのか。」とそのときは思ったけど、人が変わるのはなかなか難しいことで、でも自分が変われば人も変わるんだとその時初めて気付かされた。
簡単なことのようで、気づかないなかなかできないこの経験は、人生の中でも貴重な経験です。
その後は気持ちもすっきりして練習にも打ち込めたかな。
練習前にチューブを引いて、練習後にチューブと懸垂をして、帰宅のバスの中でセラバンドを引いてインナーを鍛えたり、寝る前にストレッチをしたり、高校最後の夏に向け、できる限りのことをやった。
自分だけじゃなく、周りの選手も影響され自主的にトレーニングやケアをするようなチームができてきた。
でも、3月に東日本大震災があり、学校のプールが安全管理上使用できなくなった。
「最後の年にタイミング悪すぎるだろ。」と、正直思ったが、周囲に怪我人が出ることもなく、東北の方々の苦労や悲しみを思えば、また作り上げれるものであるし、ちっぽけなものだと思いこんだ。
親友のスイミングクラブは一足先にプールがつかえるみたいだったから、私は練習に参加させてもらうことにした。
そこで、そのコーチから「お前らみたいに才能のあるやつが努力したら、普通のやつが敵うわけないんだよ。だからもっと本気になれよ。」と熱い言葉をかけてくれた。
こんなこと言えるコーチってすごいと思いながらも、自分にはまだまだやれることがあると探し出し、今まで以上に努力した。
今思うとあの頃が人生で一番努力していたと言ってもいいくらい頑張っていたと思う。
でも、県大会直前にお腹の異変を感じながら、主将だし練習は抜けられないと無理をしながら練習をし続けちゃった。
案の定、動けなくなるくらい体調が悪化して、県大会1週間前まで入院することになった。
チームとして大事な時期に抜けてしまう情けなさを感じながらも、どうしたらいいか考えた。
やっぱり、体調管理は重要。笑
そんなとき、監督が2000年のシドニーオリンピックのDVDを「泳げないならイメージだけでもしろ。」と言って、渡してくれた。
あらためてピーターファンデンホーヘンバント選手の爽やかな笑顔を見て、初心にかえったというか、焦っていた気持ちが新鮮な気持ちになった。
「初心忘るべからず」とはこのことか、といった感じ。笑
県大会ではとりあえずインターハイの標準を切り、リレーも関東の出場を決めることができた。
その頃、大学から勧誘の声がかかってきた。
それが現在の早稲田大学。
高校の監督が早稲田出身なので、大学の監督と連絡をとっていたのか、自由形で実績がない私を自由形で欲しいと言ってくれた。
当時は中央に興味があり、自らアピールしている感じだったから、早稲田から勧誘がきてびっくりした。
ただ、その2つの選択肢でどうするか本当に悩んだ。
結果を残してないのに努力の過程を見て必要としてくれてる早稲田、前々から憧れを持っていて尊敬する神奈川の先輩がいる中央。
自分だけでは決めれなかったから、仲のよかったメンバーと相談し合った。
そこで重要な人物が1人。
現在、日本代表でも活躍をしている早稲田大学で同期のNかむらKつみ。
彼も中央か早稲田かで迷っていたみたい。
そこで「2人で同じ大学にいって俺らで強くしていこう。」と、「そう考えたら早稲田に入って中央を倒すのが面白そうだな。」と、また、後輩であるDいやからも「来年早稲田に入るから早稲田にしようよ~。」と言われ、そんな過程があり、夢を持って早稲田大学に進路を決めた。
彼はインターハイでも優勝し、当時から強い選手だなという印象。
でも、自分自身は関東大会・インターハイでは思うような結果が出せず、チームとしても最高の結果は残せなかった。
それなのにチームのみんなは「拓矢が主将でよかった。本気で頑張れて楽しかった。」って言ってくれた。
その言葉を聞いたとき、嬉しさ半分、私はもっと彼らにしてあげられることがあったんじゃないかと、自分の無能さを痛感させられた。
でも、最初は大変でしたが、学ぶことも多くあり、主将をやって良かったと思う。
高校ではあまり実績を残せなかった、そんな私でも必要としてくれる早稲田のために1年目から頑張らなきゃなと思い、引退してからも毎日練習し続けた。
高校3年の春のJO(人生最後のJO)にも出場して、最後くらい結果残したいなと思っていたら、そこで50m・100m平泳ぎで2種目優勝することができた。
なんで平泳ぎかって、練習は自由形でしてたけど、平泳ぎの方が勝てる可能性があったから。笑
人生初の全国2冠で素直に嬉しかった。
こんな調子で早稲田大学に入学。
早稲田大学に入って驚いたことは、ナショナル合宿で可愛いなと思っていた先輩がいたこと。
会った瞬間「ずっとファンでした。」って言ったら、「ありがとう。私もファンでした。」って冗談で言ってくれて、めっちゃ嬉しかった。笑
初めての寮生活は慣れるまでに時間もかかって、最初の日本選手権では3種目で全体のビリから1.2.3位を記録したこともある。笑
そんな滑り出し最悪な感じで大学水泳がスタートして、寮でも一年生の仕事が始まって、最初の2週間くらいは本当に辛かった。
でも、慣れてしまえば仕事も当たり前に思えるもんだよね。
あと、最初の部屋の先輩がとても優しい方で、だんだんと寮生活も楽しく思えてきた。
そんな中、JAPAN OPEN・早慶戦、あっという間に1回目のインカレ。
早稲田基準を満たしてなかったけど、リレーのメンバーだからといって、個人種目にも特別に出させてもらった。
大学に入ってから全然調子が良くなかったものの、インカレの雰囲気を感じたらすごいわくわくしてきて、1年目から100mでベストタイムを0.5秒更新することができた。
B決にも残り、少しだけでもチームに貢献できたかな。
その後、11月にW杯東京大会があり、初めて国際大会に出場し、個人では外国人がいるなかであまり実力は出なかったけど、男女混合リレーで運良く優勝することができて、いい思い出だな~。
2月の日本短水路でも50m平泳ぎで3位に入れて初めての表彰台だったから、嬉しかった。
でも、1年目の思い出として大きいのはやっぱり大掃除かね。
当時は本当に辛かったし、意味わかんなかったけど、今となってはいい思い出だし、楽しかったとすら思えてくる。
もう二度とやりたくはないけど。笑
そんなこんなで2年目になって、この2年目のチームは思い入れが強いかな。
やっぱり、指導係の1.3の関係でもあるし、入寮してからずっと面倒みてくれてて今も変わらず気にかけててくれる先輩がいたから。
あと、自分自身4年生としてこのチームを思い出しても、本当にいいチームだった。
よく話し合って、意見ぶつけて、人数が多かったけど一人一人役割があって。
努力して全員がやることやってたらいいチームってできるんだよね。
あと、六大学でずっとかっこいいなって思ってた選手(MりYうすけさん)と話しができて、嬉しかった。笑
そんな感じでまた気づいたらインカレ。
あっという間に2回目のインカレで、この年は50m・100m自由形で早稲田基準を突破し、出場。
しかし、ほんの少ししかベストを更新することができず、B決どまり。
思い入れが強いチームだけに、結果で恩返ししたかった。
チーム全体としては両主将の活躍もあってすごいいい雰囲気で終われたのかな。
その後はまたW杯があって、100m平泳ぎでドイツ人とスイムオフしたのがめっちゃ印象に残ってる。
前半から突っ込みあって競り勝ったのは気持ちよかったな~。
裏話をすると英語しゃべれないけど、レース前にドイツ人にお互い頑張りましょう的な感じで自分から握手したんだよね。笑
決勝タイム落としちゃったけど、いい経験ができたかな。
そのあと、12月に股関節を怪我しちゃって、ずっとリハビリだった。
練習できないし、リハビリ地味だしつまんなかったなー。
しかも、原因わからないからって病院回されて、股関節専門医のところいったら治るのに時間かかるって言われて、不安だった。
さらには3ヶ月リハビリしても治らないから手術したほうがいいってなって、あと、リハビリ行ってるのに遊びに行ってるとか言われて、このチームなんなんだろうって思ってた。
結局はその中でも応援してくれる人がいるから手術することにしたけど、あんまり気持ちは前向きじゃなかった。
手術は無事に終わって、そのあともリハビリで本当に何してるんだろうって思ったよ。
練習し出したら練習は頑張るし、やるからにはやりたいし、って思いで頑張ったら、最低でも半年かかるって言われたのに、早慶戦までに復帰できて、3回目インカレも出場できたけど、全然楽しくなかったな。
そのまま1番上の学年になって、その前の主将選出から俺は自分のことばっかり考えてた。
そんな中ちょっとずつ就活が始まっていく。
わからないことだらけで不安もあるけど、楽しいなっていう感覚の方が強かったかな。
今まで自分のことをそこまで考えたことなかったし、自己分析をすることによって長所だったり価値観だったり見えてくるのが面白い。
いろんな業界の知識を得て、物の見方も変わってくるし、社会経験豊富な大人と接することで、いかに狭い世界で生きてるかってのを、すごい感じた。
やりたいこととかわからないし、どこに就職したいのか分からなかった昨年の今頃と比べると、コミュニケーションの重要性とかすごい感じるようになったし、だいぶ成長したんじゃないかな。
就活するときにね、今まで本当に多くの人にお世話になったから、社会にでたら次は自分が人を支えられるような仕事がしたい、そして常に成長できる環境ってのを考えて、見てた。
実際に就活のときもたくさんの人が協力してくれて、本当に人は一人では生きていけないんだと思うし、お互いに支え合っていくものだって思った。
なんか変な話、就活が早く終わることで成長できる時間がなくなるって考えたら、就活続けてても良かったかなとも思うくらいも感じたし。笑
でもその中で水泳の練習をして、見えないところでストレスも感じて、水泳はなかなかうまくいかなかった。
やっぱり練習しながら就活するのって大変なんだなって思った。
めっちゃ泳いでるのが辛かった。
近くに俺と同じ境遇の人がいなくて、誰もわかってくれないからね。
でも、最後の早慶戦と国体予選はなにか感じるものがあったな。
全然速く泳げなかったけど、早慶戦では久しぶりにレースが楽しいと思えたし、国体予選では色んな人が声かけてくれて本当に暖かいこの環境で育ってこれて良かったって思えた。
そういうのもあって、本気で色々考えて、競技者としてはもう悔いはないんだよね。
チームに迷惑をかけたのは申し訳ないと思うけど、あとはこのチームにいれて良かったって、楽しかったって思いたい。
だから我慢することもたくさんあるし、辛いときでもみんなとは楽しく明るく接していくって決めた。
インカレまで頑張るよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~
今までの水泳人生について語ってきたけど、長いのに最後まで読んでくれてありがとう。
面白くはなかったよね。笑
でも、人柄とか考えとかを素直に感じてもらえたらいいなと思う。
ちなみにこれ書くのに8時間くらいかかった。笑
ってなことで、最後にいくつか言いたいことを言って終わりにする。
水泳をしてきて多くの人と出会って、大切な仲間ができたこと、これはすごい幸せなことだと思う。
だから、みんなもその仲間といる時間を大切にして、いっぱい話してお互いに理解し合っていってほしい。
不安なとき、辛いとき、困ってるとき、仲間に話すことで毎日楽しく過ごせると思うし、水泳も楽しくなるんじゃないかな。
あとは、ここまで水泳を続けてこれたのは多くの支えがあったから。
うわべだけじゃなくて、今になってそれをすごい感じるし、ありがたいことだと思う。
特に親には感謝してる。
高校を選ぶときも大学を選ぶときも、「お金のことは気にしなくていい。」って言ってくれて、今まで自分の好きなようにさせてくれた。
それだけじゃなくて多分一番近くで応援し続けてくれた。
これから社会に出て、親も含めた支えてきてくれた人に恩返ししていきたい。
今まで私を支えて下さった多くの方々、応援して下さった方々に感謝の気持ちを込めて最後のいにしゃるとーくとさせて頂きます。
本当にありがとうございました。
また、この先の人生においてもどうぞよろしくお願い致します。
以上。
次はYほ。
あと10日!
A:あんまりこういうの得意じゃないけど
M:まっすぐな気持ちで表現する
A:雨谷拓矢の水泳人生もそろそろ
G:ゴールが近づいてきた
A:ありがとうの気持ちを
I:色々な人に届けたい
TAKUYA
T:楽しいことも辛いことも
A:あったよ、色々と
K:この15年間の想いを詰め込んだ最後のいにしゃるとーく
U:上手く伝わるかわからないけど
Y:やっぱり水泳やってて良かった
A:あとはみんなと笑顔で終わりたい
こんばんは。
4年のAまがいTくやです。
タイトルに名前出てるから誰だかバレバレだよね。笑
今回は最後のいにしゃるとーくということで、私の水泳人生と、思うこと全てを語っていこうかな。
4年生のしょっぱなって難しくない?笑
長くなると思うけど、なかなかこんな風に語る人間ではないってのをふまえて、最後まで読んでくれたら嬉しいな。笑
飽きたら途中飛ばしてもいいから、最後の方は読んでほしい。
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まず、水泳を始めたきっかけについてなんだけど、2000年のシドニーオリンピックで競泳を見て、「水泳って面白そう」と思ったから。
その中でもオランダのピーターファンデンホーヘンバント選手が100m自由形で優勝したときのあの爽やかな笑顔が今でも忘れられない。
自分もこの選手みたいにかっこよくなりたいと思ったの。
(正直、始めたきっかけはいまいち覚えてないから、自分なかでは上のように仮定しておく。笑)
そして、地元の某スイミングスクールに通い始め、もともと泳げたのに水に顔をつけるところからスタートだったから、スイミングスクールを変えて、そこで中学までお世話になることに。
小学2年生になる頃にそのスクールに通い始め、2ヶ月で育成コースに呼ばれ、本格的に競泳への道がスタート。
平泳ぎとバタフライを習う前に育成コースに呼ばれたから、練習で泳ぎ方とかわからなくて、見よう見まねでなんとか泳いでたっていうね。
そんなこんなで半年が過ぎ、選手コースに上がる。
そこで出会ったのが私に競泳を教えてくれた恩師。
練習もきつくて色々と厳しかったけど、当時とても負けず嫌いだったから、必死になって食らいついてた。
練習中よくゴーグルの中で泣いていたのを今でも覚えてる。笑
がむしゃらになって頑張っていたら、コーチから「大阪に行けるぞ!」と突然言われた。
某グループの全国大会のことで、毎年大阪で行われていて、選手コースになってから1年もたたないうちに、気づいたらそのレベルまでなってた。
初めて出る全国大会で、運良く2位になることができ、周囲も自分もびっくり。(50m背泳ぎ)
その大会の少しあとに、コーチがいきなり「JOに出れるぞ!」と、テンション高めに言い出し、「JOってなんだよ」と心の中で思ったのを覚えてる。笑
JOとは皆さんもご存知の通り、ジュニアの全国大会のこと。
その大会の存在すら知らない状況、水泳を初めて約2年という驚異的なスピードで、全国への切符を掴むとかいう漫画の世界みたいな話。笑
初めてのJOは出るだけといった感じの結果で、めちゃくちゃ速いやつらに「こいつらすげぇ」と感心してしまうほど。
だけど負けず嫌いだったから、そいつらに勝ちたいと思って、そのあとめちゃくちゃ頑張った。
小学4年生の夏のJOはメドレーリレーで2位になって、春のJOでは個人(50m平泳ぎ)で3位だった。
ここまで驚異的なスピードで成長してきたので、試合に出るのが楽しくて楽しくてしょうがない感じ。
このままいけば将来オリンピックにもいけると思っていたくらい。笑
でも、小学5年生の5月くらいに膝を痛めて、初めて挫折を味わった。
今まで順調すぎるくらいにきてたから、余計に泳げないもどかしさや辛さを感じる。
その後は、JOにずっと出場はしてたけど、メダルを取ることも決勝に残ることもなく、水泳がどんどんつまらなくなっていった。
その頃、スイミングのグループ内で恩師が移動になり、まだまだ幼かったこともあり目標を見失い、中学に上がるときには本気で水泳を辞めようとも思ってた。
それでも辞めなかったのは、親に言われた言葉と、水泳を通じて出来た親友がいたから。
親からは「辞めたければ辞めたらいい。ただ、そんな中途半端な気持ちなら何やっても一番にはなれないよ。」と。
子供の性格を一番に理解している親なので、当時はむかつきましたが、今では「性格を上手く利用してよく続けさせたなあ。」と感心してるくらい。笑
親友は神奈川県の地域が同じで、地区大会から県大会・全国大会でも常に一緒にいるような仲で、幼い頃から全国で優勝するなど自分にとっては彼に追いつきたいという想いがあって、頑張っていた。
そんな親友から「一緒にオリンピック行きたい。」と言われ、その言葉を聞いたときに、認めてもらえた気がして、嬉しくて、頑張ろうって思った。
恩師の元へ移籍もして、また新たな気持ちで中学でも水泳を続けていった。
中学1年のときは全然結果も出かったけど、その移籍先に全国大会で優勝するような偉大な先輩(SおうらSんりさん)がいた。
今でも日本の競泳界を引っ張る存在で、当時からここぞというときの集中力と、目標を明確にして速くなるための努力をしてた。
その先輩は高校に上がるときに移籍しちゃったけど、この1年で多くを学んだと思う。
そして、中学2年の夏、全国中学ではスタートをミスし予選敗退で悔しい思いをしたけど、その後のJOで初めて全国優勝できて気持ちよかった。(50m平泳ぎ)
さらに、100m平泳ぎで日本準強化選手(通称ナショナル)のタイムを突破し、冬には同年代の全国で速いやつらが集まるナショナル合宿に参加した。
ナショナル合宿では本当にレベルの高い選手ばっかりで、自分の甘さを痛感させられた。
そして、練習への取り組み方やケアの大切さ、栄養や休養のことなど事細かく学んだ。
その合宿でとても印象に残る2人の人物と出会いもある。
1人は大学の後輩でもあるSとDいや。
彼は当時からすごい前向きで、人懐っこく、とても可愛いやつだなという印象。
そして、2人目は大学の先輩でもある女の選手。
その人の何が印象的だったかって、めっちゃ可愛かった。笑
シャイだったから、話しかけることもなく、誰かに話すこともなく、陰から見ているだけだったけどね。
この2人の話はまた後々出てくるよ。
その合宿も終わり、新たにモチベーションが上がり、中学3年の全国中学に向けて相当な努力を積み重ねたんだけど、全国中学では決勝には残ったものの、思ったような結果は残せなかった。
正直、自分の実力を出し切ればもっといけたはずだったし、不甲斐なさと悔しい思いでいっぱいだった。
その後は。初めて出場した国体では、偉大な先輩に囲まれた中でメドレーリレーに出場し、優勝。
千葉対抗戦では神奈川の同期とメドレーリレーを組み、中学記録を更新。
この神奈川代表として出場する2つの試合を通して、本当に神奈川チームの温かみを感じた。
この後、高校受験という進路選択の際に、大きな決断をする。
全国中学ではいい結果を残せなかったから、ずっと教わってきた恩師の元を離れて、違う環境で今までにない考え方を取り入れようと考えていた。
結局、学校練習という環境と勉強はある程しておきたいという思いから、桐蔭学園に進学を決意。
しかし、今まで本当にお世話になった恩師への想いは相当なもので、高校進学前に絶対に恩返しすると決めていた。
その想いが相当強かったのか、短水路で50mと100mともに中学記録を更新し、長水路でも50mで中学記録を0.6秒ほど更新。(平泳ぎ)
長水路の中学記録を更新したときは、長い間抜かれないだろうと勝手に思ってたら、次の年にDいやにあっさり抜かれたけど。笑
そんなこんなで私自身新しい環境でこの先の競技人生を期待して、高校に入学。
高校では朝練もあって、練習量も相当増え、勉強もそれなりにやらないとついていけないという感じで、慣れるまで本当に大変だった。
慣れてからも死ぬほどきつい毎日だったけどね。笑
入学してすぐの JAPAN OPEN で、中学最後の勢いそのままに50m平泳ぎで高校記録を更新し、「この環境ならもっと成長していける。」と思ってた。
高校の試合では、県大会から学校毎に総得点を競い合う対抗戦になってて、個人競技ではありながら、チームや仲間の大切さってのを学んだ。
今まで感じていた感覚とは違う感覚で競泳に打ち込むことはとても新鮮で、毎日が充実してた。
でも、インターハイの結果は100m平泳ぎ・50m自由形ともにギリギリのところで予選落ち。
400mリレーで決勝に残ってチームとしては盛り上がったけど、やっぱり個人で結果を残したかったから、悔しい想いをした。
その後の国体は50m自由形で3位には入ったけど、メドレーリレーで失格しちゃうという最悪の結果に。
正直、めちゃくちゃ責められても当たり前なことなのに、神奈川のみんなは責めることはなくて、成年の方が「お前らの分は俺らが取り返してやるから。」とか、コーチ陣から「この経験が将来に生きてくるよ。」とか、本当に心から優しい人が多い。
逆にその優しさに応えられなかった自分を強く責めたけど。
冬場の追い込みの時期には今までに体感したことのないくらいきつい練習が毎日続いて、無理って思ってたけど、「大好きな神奈川のチームに貢献したい。」って思いで必死に努力してた。
でも、桐蔭の新チームは監督と色々もめることがあって、雰囲気は最悪。
自身もこのチームのためには頑張れないと思っちゃった。
神奈川のチームのため、信じてくれている仲間のために、自分中心で練習をしてたんだけど、当然、夏にはチームであまりいい結果は残せず、自身もずっとベストを出せなかった。
なんでこんなきつい練習をしているのに試合ではベストがでないのか、水泳をしている意味がわからなくなって、本気で悩んだ。
高校2年の夏が終わって、悩んでる私を見て監督から「自由形の短距離をやってみないか?」と言われた。
平泳ぎでは全然タイムも伸びない中、きつい練習の毎日で私は水泳が嫌いになっていた。
もともと自由形の短距離はある程度の速さでは泳げていたっていうのもあって、この際気分転換に自由形で心入れ替えて頑張ってみるかと思った。
これが長年やってきた平泳ぎから自由形に転向したきっかけ。
でも、その専門種目を変える決断をするのと同時期くらいに、チームの主将を任されることになった。
自分のことでもいっぱいいっぱいなのに、チームのことまで考える余裕はない。
思っていた通り、新チームが始まり最初は本当にうまくまとめられなくて、さらには自由形のフォームもぐちゃぐちゃで最悪な始まりだった。
同期で何回もミーティングをしたけど、なかなか協力してくれる人はいない。
今思うと「そりゃ俺の中で方針とかやり方が定まってないのにのに、他人がチーム運営に意見出す方が難しいでしょ。」と思う。笑
どっちつかずの中途半端な時間が流れ、「俺には無理なのかな。」って思っているときに、あるOBの方が「言ってわかってもらえないなら、やって見せてみたら?」とアドバイスをくれた。
最初は「何も言わないで俺だけやっても無駄だろ。」と思いながらも、自分が何でもかんでも先頭に立ってやるように心がけた。
そしたら、同期もミーティングで意見をくれるようになり、後輩も練習で声を出すようになり、だんだんとまとまりが出てくるようになった。
「こんな簡単なことなのか。」とそのときは思ったけど、人が変わるのはなかなか難しいことで、でも自分が変われば人も変わるんだとその時初めて気付かされた。
簡単なことのようで、気づかないなかなかできないこの経験は、人生の中でも貴重な経験です。
その後は気持ちもすっきりして練習にも打ち込めたかな。
練習前にチューブを引いて、練習後にチューブと懸垂をして、帰宅のバスの中でセラバンドを引いてインナーを鍛えたり、寝る前にストレッチをしたり、高校最後の夏に向け、できる限りのことをやった。
自分だけじゃなく、周りの選手も影響され自主的にトレーニングやケアをするようなチームができてきた。
でも、3月に東日本大震災があり、学校のプールが安全管理上使用できなくなった。
「最後の年にタイミング悪すぎるだろ。」と、正直思ったが、周囲に怪我人が出ることもなく、東北の方々の苦労や悲しみを思えば、また作り上げれるものであるし、ちっぽけなものだと思いこんだ。
親友のスイミングクラブは一足先にプールがつかえるみたいだったから、私は練習に参加させてもらうことにした。
そこで、そのコーチから「お前らみたいに才能のあるやつが努力したら、普通のやつが敵うわけないんだよ。だからもっと本気になれよ。」と熱い言葉をかけてくれた。
こんなこと言えるコーチってすごいと思いながらも、自分にはまだまだやれることがあると探し出し、今まで以上に努力した。
今思うとあの頃が人生で一番努力していたと言ってもいいくらい頑張っていたと思う。
でも、県大会直前にお腹の異変を感じながら、主将だし練習は抜けられないと無理をしながら練習をし続けちゃった。
案の定、動けなくなるくらい体調が悪化して、県大会1週間前まで入院することになった。
チームとして大事な時期に抜けてしまう情けなさを感じながらも、どうしたらいいか考えた。
やっぱり、体調管理は重要。笑
そんなとき、監督が2000年のシドニーオリンピックのDVDを「泳げないならイメージだけでもしろ。」と言って、渡してくれた。
あらためてピーターファンデンホーヘンバント選手の爽やかな笑顔を見て、初心にかえったというか、焦っていた気持ちが新鮮な気持ちになった。
「初心忘るべからず」とはこのことか、といった感じ。笑
県大会ではとりあえずインターハイの標準を切り、リレーも関東の出場を決めることができた。
その頃、大学から勧誘の声がかかってきた。
それが現在の早稲田大学。
高校の監督が早稲田出身なので、大学の監督と連絡をとっていたのか、自由形で実績がない私を自由形で欲しいと言ってくれた。
当時は中央に興味があり、自らアピールしている感じだったから、早稲田から勧誘がきてびっくりした。
ただ、その2つの選択肢でどうするか本当に悩んだ。
結果を残してないのに努力の過程を見て必要としてくれてる早稲田、前々から憧れを持っていて尊敬する神奈川の先輩がいる中央。
自分だけでは決めれなかったから、仲のよかったメンバーと相談し合った。
そこで重要な人物が1人。
現在、日本代表でも活躍をしている早稲田大学で同期のNかむらKつみ。
彼も中央か早稲田かで迷っていたみたい。
そこで「2人で同じ大学にいって俺らで強くしていこう。」と、「そう考えたら早稲田に入って中央を倒すのが面白そうだな。」と、また、後輩であるDいやからも「来年早稲田に入るから早稲田にしようよ~。」と言われ、そんな過程があり、夢を持って早稲田大学に進路を決めた。
彼はインターハイでも優勝し、当時から強い選手だなという印象。
でも、自分自身は関東大会・インターハイでは思うような結果が出せず、チームとしても最高の結果は残せなかった。
それなのにチームのみんなは「拓矢が主将でよかった。本気で頑張れて楽しかった。」って言ってくれた。
その言葉を聞いたとき、嬉しさ半分、私はもっと彼らにしてあげられることがあったんじゃないかと、自分の無能さを痛感させられた。
でも、最初は大変でしたが、学ぶことも多くあり、主将をやって良かったと思う。
高校ではあまり実績を残せなかった、そんな私でも必要としてくれる早稲田のために1年目から頑張らなきゃなと思い、引退してからも毎日練習し続けた。
高校3年の春のJO(人生最後のJO)にも出場して、最後くらい結果残したいなと思っていたら、そこで50m・100m平泳ぎで2種目優勝することができた。
なんで平泳ぎかって、練習は自由形でしてたけど、平泳ぎの方が勝てる可能性があったから。笑
人生初の全国2冠で素直に嬉しかった。
こんな調子で早稲田大学に入学。
早稲田大学に入って驚いたことは、ナショナル合宿で可愛いなと思っていた先輩がいたこと。
会った瞬間「ずっとファンでした。」って言ったら、「ありがとう。私もファンでした。」って冗談で言ってくれて、めっちゃ嬉しかった。笑
初めての寮生活は慣れるまでに時間もかかって、最初の日本選手権では3種目で全体のビリから1.2.3位を記録したこともある。笑
そんな滑り出し最悪な感じで大学水泳がスタートして、寮でも一年生の仕事が始まって、最初の2週間くらいは本当に辛かった。
でも、慣れてしまえば仕事も当たり前に思えるもんだよね。
あと、最初の部屋の先輩がとても優しい方で、だんだんと寮生活も楽しく思えてきた。
そんな中、JAPAN OPEN・早慶戦、あっという間に1回目のインカレ。
早稲田基準を満たしてなかったけど、リレーのメンバーだからといって、個人種目にも特別に出させてもらった。
大学に入ってから全然調子が良くなかったものの、インカレの雰囲気を感じたらすごいわくわくしてきて、1年目から100mでベストタイムを0.5秒更新することができた。
B決にも残り、少しだけでもチームに貢献できたかな。
その後、11月にW杯東京大会があり、初めて国際大会に出場し、個人では外国人がいるなかであまり実力は出なかったけど、男女混合リレーで運良く優勝することができて、いい思い出だな~。
2月の日本短水路でも50m平泳ぎで3位に入れて初めての表彰台だったから、嬉しかった。
でも、1年目の思い出として大きいのはやっぱり大掃除かね。
当時は本当に辛かったし、意味わかんなかったけど、今となってはいい思い出だし、楽しかったとすら思えてくる。
もう二度とやりたくはないけど。笑
そんなこんなで2年目になって、この2年目のチームは思い入れが強いかな。
やっぱり、指導係の1.3の関係でもあるし、入寮してからずっと面倒みてくれてて今も変わらず気にかけててくれる先輩がいたから。
あと、自分自身4年生としてこのチームを思い出しても、本当にいいチームだった。
よく話し合って、意見ぶつけて、人数が多かったけど一人一人役割があって。
努力して全員がやることやってたらいいチームってできるんだよね。
あと、六大学でずっとかっこいいなって思ってた選手(MりYうすけさん)と話しができて、嬉しかった。笑
そんな感じでまた気づいたらインカレ。
あっという間に2回目のインカレで、この年は50m・100m自由形で早稲田基準を突破し、出場。
しかし、ほんの少ししかベストを更新することができず、B決どまり。
思い入れが強いチームだけに、結果で恩返ししたかった。
チーム全体としては両主将の活躍もあってすごいいい雰囲気で終われたのかな。
その後はまたW杯があって、100m平泳ぎでドイツ人とスイムオフしたのがめっちゃ印象に残ってる。
前半から突っ込みあって競り勝ったのは気持ちよかったな~。
裏話をすると英語しゃべれないけど、レース前にドイツ人にお互い頑張りましょう的な感じで自分から握手したんだよね。笑
決勝タイム落としちゃったけど、いい経験ができたかな。
そのあと、12月に股関節を怪我しちゃって、ずっとリハビリだった。
練習できないし、リハビリ地味だしつまんなかったなー。
しかも、原因わからないからって病院回されて、股関節専門医のところいったら治るのに時間かかるって言われて、不安だった。
さらには3ヶ月リハビリしても治らないから手術したほうがいいってなって、あと、リハビリ行ってるのに遊びに行ってるとか言われて、このチームなんなんだろうって思ってた。
結局はその中でも応援してくれる人がいるから手術することにしたけど、あんまり気持ちは前向きじゃなかった。
手術は無事に終わって、そのあともリハビリで本当に何してるんだろうって思ったよ。
練習し出したら練習は頑張るし、やるからにはやりたいし、って思いで頑張ったら、最低でも半年かかるって言われたのに、早慶戦までに復帰できて、3回目インカレも出場できたけど、全然楽しくなかったな。
そのまま1番上の学年になって、その前の主将選出から俺は自分のことばっかり考えてた。
そんな中ちょっとずつ就活が始まっていく。
わからないことだらけで不安もあるけど、楽しいなっていう感覚の方が強かったかな。
今まで自分のことをそこまで考えたことなかったし、自己分析をすることによって長所だったり価値観だったり見えてくるのが面白い。
いろんな業界の知識を得て、物の見方も変わってくるし、社会経験豊富な大人と接することで、いかに狭い世界で生きてるかってのを、すごい感じた。
やりたいこととかわからないし、どこに就職したいのか分からなかった昨年の今頃と比べると、コミュニケーションの重要性とかすごい感じるようになったし、だいぶ成長したんじゃないかな。
就活するときにね、今まで本当に多くの人にお世話になったから、社会にでたら次は自分が人を支えられるような仕事がしたい、そして常に成長できる環境ってのを考えて、見てた。
実際に就活のときもたくさんの人が協力してくれて、本当に人は一人では生きていけないんだと思うし、お互いに支え合っていくものだって思った。
なんか変な話、就活が早く終わることで成長できる時間がなくなるって考えたら、就活続けてても良かったかなとも思うくらいも感じたし。笑
でもその中で水泳の練習をして、見えないところでストレスも感じて、水泳はなかなかうまくいかなかった。
やっぱり練習しながら就活するのって大変なんだなって思った。
めっちゃ泳いでるのが辛かった。
近くに俺と同じ境遇の人がいなくて、誰もわかってくれないからね。
でも、最後の早慶戦と国体予選はなにか感じるものがあったな。
全然速く泳げなかったけど、早慶戦では久しぶりにレースが楽しいと思えたし、国体予選では色んな人が声かけてくれて本当に暖かいこの環境で育ってこれて良かったって思えた。
そういうのもあって、本気で色々考えて、競技者としてはもう悔いはないんだよね。
チームに迷惑をかけたのは申し訳ないと思うけど、あとはこのチームにいれて良かったって、楽しかったって思いたい。
だから我慢することもたくさんあるし、辛いときでもみんなとは楽しく明るく接していくって決めた。
インカレまで頑張るよ。
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今までの水泳人生について語ってきたけど、長いのに最後まで読んでくれてありがとう。
面白くはなかったよね。笑
でも、人柄とか考えとかを素直に感じてもらえたらいいなと思う。
ちなみにこれ書くのに8時間くらいかかった。笑
ってなことで、最後にいくつか言いたいことを言って終わりにする。
水泳をしてきて多くの人と出会って、大切な仲間ができたこと、これはすごい幸せなことだと思う。
だから、みんなもその仲間といる時間を大切にして、いっぱい話してお互いに理解し合っていってほしい。
不安なとき、辛いとき、困ってるとき、仲間に話すことで毎日楽しく過ごせると思うし、水泳も楽しくなるんじゃないかな。
あとは、ここまで水泳を続けてこれたのは多くの支えがあったから。
うわべだけじゃなくて、今になってそれをすごい感じるし、ありがたいことだと思う。
特に親には感謝してる。
高校を選ぶときも大学を選ぶときも、「お金のことは気にしなくていい。」って言ってくれて、今まで自分の好きなようにさせてくれた。
それだけじゃなくて多分一番近くで応援し続けてくれた。
これから社会に出て、親も含めた支えてきてくれた人に恩返ししていきたい。
今まで私を支えて下さった多くの方々、応援して下さった方々に感謝の気持ちを込めて最後のいにしゃるとーくとさせて頂きます。
本当にありがとうございました。
また、この先の人生においてもどうぞよろしくお願い致します。
以上。
次はYほ。
あと10日!