どうでもよいことは話が弾む | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

昨日は大雨につき、電車が止まってしまった。
これは出勤できないな、でも休むわけにもいかんし、レンタカーでも借りるかと頭を抱えていたら、勤務先の事務長さんの車通勤途中でひろってもらえることになった。

渋滞もあり、片道2時間近くドライブをご一緒した。行きも帰りも乗せてもらったので4時間ぐらい話したことになる。

タバコ規制の話、クレーマー対策の心得など興味深い話が多かった。

事務長さんの口癖は、ご自分の発言の末尾にだいたい「どっちだっていいんですけどね」と付け加えることだった。

この最後の一言はなんだか聞く側の連想力を喚起するようで、しゃべっているうちに、いつの間にかドライブ目的地に着いてしまった?

数年前までは、僕も言葉の最後に「かもしれない」とやたらめったらに付け加えていた。しかし、医療者になって、はっきり言い切らないといけないかなと思うときがあり、もやっとさせる言い方を避けることが多くなった。患者さんの説明然り、カンファレンスでの発言然り。

不思議なことに「◯◯の可能性があります」と「◯◯かもしれません」とでは、内容的にはたいして変わらないはずなのだが、前者の方が圧倒的に患者さんからの質問が少ない。反対に、「人と話すのが苦手」という患者さんは、たいていの場合、後者の言い回しに抵抗感をもたれるようだ。

会話とはなんだろうか。
言語とはなんだろうか。

上の二つの問いは微妙なところで決定的に異なっている。

会話は、言葉を耕す営みであってほしい。
言葉を繰り返し耕すことが、言葉によって語りえない「話者の在り方」を告げ知らせるのではないか、と僕は思っている。そして、話す内容よりも、話す人の在り方が伝わることのほうが実は大切なのではなかろうか。

小林秀雄が本居宣長に見いだした古典への態度、カール・バルトがシュライエルマッヘルに見いだした聖書への態度、二つの態度に共通するのは、本を読むことを越えて、本と会話することだったように思う。

帰宅して某公共放送のニュース番組をつけると、事務長さんに耕された僕の言葉は急速に冷めていった。しっかり働いたあとの休憩は心地よい。