なにやらどこぞの議員さんの失言をめぐって、ニュースは騒がしい。
当該議員さんの事務所には生卵が投げつけられたとか。
生卵、もったいない・・・。ま、それはいいとして。
大学からの帰り道をテクテク歩いていると、ため池にたたずむ何ものかの影を発見。
よくみてみると・・・
亀さんだった。
ため池を通り過ぎる間、この亀さんは微動だにせず、静かに一点を見つめていた(ように見えた)。
かっこよい。すがすがしい。次第に僕は、この亀さんに畏敬の念を抱きはじめた。
本当に大切な事柄に真摯に臨むとき、生命には気高さが宿るのではないか。
一連の失言騒動とは大違いだなぁとしみじみ思う。
物事の本質に迫ろうとする峻厳さは、他者への穏和さと両立しうる。
厳しさゆえにぶれない視線は、その柔和さゆえに喧騒とは無縁であろう。
騒ぐべきことが騒がれず、騒ぐほどのことでもないことで騒ぎが起きている。
そんな違和感を僕は拭い去ることができずにいる。へそ曲がりなのだろうか。
【6/29追記】
からかう者、からかわれる者、まわりではやしたてる輩、おしなべて
この亀さんのレベルに届いていないような気がする。
だれかのマナーをあげつらうのは、たしかに大切なことかもしれないが
議員の本分は、マナーをちゃんとすること以外にも、もっとあるのではないか?
政治という場で自分の主張を通していくために、正攻法だけでは足りない事はよくある。
というか、泥臭く、粘り強く、訴えを説き、訴えの内容を磨いてくことも大切である。
自分の主張がすぐに受け入れられ、実現する世界なら、議会は要らない。
その意味で、政治は、本質的に苦いものである。
だから、政治の場での失言が槍玉にあげられるようになったということは、
モラルの低下ではなく、政治感覚の低下を意味しているのだ。
なぜなら、低いモラルの言動も、政治においては一つの戦略でありうるのだから。
低いモラルの言動は、その意味で、政治的ですらあるからだ。
何かを問う前に、「これは本当に真剣に考えるに値する問題か」を思量すること。
忘れずにいたい。

