一か月以上前になるが、映画『ニシノユキヒコの恋と冒険』を見てきた。こういう作品を映画館で見られるうちは、映画ファンであり続けたい。久々にそう感じられた作品だった。井口奈己という監督は面白い。
主人公は竹野内豊演じる「ニシノユキヒコ」。この人物の造型が謎深い。高級車に乗ってはいるが、住んでるマンションは割と庶民派。コンビニアイスを食べたり、仕事途中に名画座で古い日本映画を見たり。家族構成も不明。人物の輪郭がすこぶる曖昧である。
映画館で観終わった直後は「突然“ふっ”と終わってしまったな」というおいてけぼり感が強かった。ストーリーを理解するまでに至らず、いきなり充実した瞬間の積み重ねが強制終了させられた感じ。
でも、だいぶ時間が経ってからその作品を思い返したときに、なぜだかじわじわと涙が込み上げてきてしばらく止まらなかった。そんな経験は10年振りぐらいである。
以下、個人的な思いつき感想を述べる。ネタばれあるのでご注意。
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例えば、飲み物について。ユキヒコのふるまいは一貫性が無い。
阿川佐和子さんとファミレス行ったときは、相手に合わせて紅茶を頼む。にもかかわらず、阿川さんの分だけコーヒーが来た時、紅茶に変えるよう、お店の人に頼む。阿川さん自身は、「コーヒーでもいいわよ」と言うのに。
もう一か所、ユキヒコが紅茶を飲むシーンがある。木村文乃に紅茶を入れてあげて、一緒に飲むというシーンだ。紅茶を飲みながら話をしていくうちに、二人の距離は急速に近づく。紅茶は、ユキヒコと誰かが近づく時、飲まれていると言えるかもしれない。
一方、ユキヒコが自分の家で入れているのは常にコーヒーである。誰が訪ねてこようと、コーヒーである。尾野真千子、本田翼がユキヒコの家で鉢合わせするシーン、テーブルにはコーヒーがでている。ユキヒコと誰かが遠ざかるシーンに、コーヒーが登場するようだ。
不思議なのは麻生久美子、中村ゆりこ母娘と海辺のカフェで過ごすシーン。麻生久美子はコーヒーを、中村ゆりこ(の子役さん)とユキヒコはパフェを頼む。ここまでの傾向に従えば、一人だけコーヒーを飲む麻生久美子が、パフェを食べる娘とユキヒコから遠ざかっていくことを象徴したシーンなのかもしれない。
そうした細かいこじ付けは、ともかく。
印象深いのは、予告編にも採用されている「さびしさは共有できないからね」という尾野真千子さん演じるユキヒコ上司の台詞である。
「さびしさ」は、「本来あるべきものが無い」という認識の上に成り立つ。おそらくユキヒコにとって、本来そばにいてほしいのは麻生さんなのだ。その麻生さんを失ったユキヒコは、空虚な抜殻として生きている。
ユキヒコの人格は、泡沫のようにもろく、辛うじて同一性を保っている。お葬式でユキヒコを悼む大人数の楽団が醸すチグハグなリズムのように。ゆえに、ユキヒコの自主性はほぼ感じられない。駅の改札口で尾野さんが振り返ったときにはもういなくなっているユキヒコが象徴的だ。
ユキヒコは抜殻であるがゆえに、自分からは「好きだ」と言えない。だが人は、「好きだ」と言ってきてくれない人に引寄せられるのではないか。そこに女性たちは惹かれ、自らユキヒコに「好きだ」と告げる。
ユキヒコは抜殻であることによって、いわば器であることによって、女性たちの様々なタイプのエネルギーを受け止めることができている。しかし、この関係は長続きはしない。なぜなら、この関係が「共有」ではなく、「一方通行」によって成り立っているからだ。
しかし、「一方通行」の関係によって、女性たちは救済されている。僕にはそう見えた。だからユキヒコのお葬式には涙がない。ニシノユキヒコという人は、相手を主人公にすることに抜群に長けていた。でもそれは、彼がもつ喪失感、悲しみがそうさせたのだ。
中井久夫先生のエッセイによれば、精神医学者のM・バリントは、「医者(あるいはナース)とは、患者に愛をむけるのではなく、愛の対象となることに耐える存在である」と述べているとのこと。僕の中では、ユキヒコはバリントの言う医療者に近いところに布置される。
自分の中の何かを失った者しか、他人の中の何かを失わせることができない。精神のエネルギーにも大まかな保存則が成り立つようだ。
スクリーンには、一瞬ごとにはちきれそうなほどに芳醇な情景が映り、そのまま画面が止まればいいのにと何度感じたことだろう。しかし、一月以上たってからこの映画を振り返った時、僕の眼は、この映画を充実させていたものがユキヒコの空虚さだったことにようやく気付いた。だから映画の中では誰一人としてユキヒコのために流していなかった涙が僕の中で溢れてしまったように思う。
いまだによく分からない麻生久美子については、もう何も言うまい。
亡くなった大瀧詠一さんは、「映画は一人で見に行くべきだ」とおっしゃっていた。でも、優れた映画は、何人で観にいったとしても、観客を真の意味で一人にしてくれるものではないかと思う。
一緒に観にいった相方さんとは、この映画について一週間ぐらい、ことあるごとに話し合った。横に並んで観るだけで共有した気になれてしまう映画とは一線を画す作品だったのだろう。この直観はおそらく間違いではない。