真に翻訳可能な言語とは? | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

内田樹著、『村上春樹にご用心』を読んだ。


そのなかで比較文学について書かれている箇所が心に残ったので覚え書き。

内田は「文学だけが、真の意味で翻訳可能な言語である」という。

説明が必要だろう。ロジックはこうだ。

①良質な文学は必ず書かれた時代への批判を含んでいる。

そして、
②良質な文学は、その時代の社会が「現に含んでいる事柄」ではなく、「激しく欠いている事柄」を描くことで、時代を批判しようとする

従って、
③良質な文学の読者には、その時代の社会が「激しく欠いている事柄」について共感できる能力が要請される

ここで、
④ある時代の社会が「現に含んでいる事柄」は、国・地域によって異なる歴史・文化的背景を持っており、その種の背景を含めたままで、ある言葉を元言語から別の言語に翻訳しつくすことはできない。

一方、
⑤良質な文学が対象とする、その時代の社会が「激しく欠いている」事柄には、国・地域によって異なる歴史・文化的背景がない。

従って、
⑥良質な文学は、その時代の社会が「激しく欠いている」事柄を描く限りにおいて、元言語から別の言語に正確に翻訳することが可能性である。

つまり良質な文学は、二つの特徴を持つというわけだ。
■読者に、社会が激しくかけている事柄への共感力を要請する点で限定的。
■真に翻訳が可能であるという点で普遍的。

世界に「在る」事柄の「存在感」ではなくて、世界に「欠けている」事柄の「不在感」を取り扱うのが、内田のいう良質な文学なのだ。限られた読者に向けられて発せられた言葉が、言語という壁を軽々と越えるという逆説。

なるほど。