Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

サブスクという単語が日常会話に登場してきたきたのは2021年頃だっただろうか。はじめて耳にしたとき、うろおぼえEnglish知識に基づき、「字幕のことか?」とおもっていたが、字幕は英語でsubtitleだった。気軽に好きな時間に映像作品が楽しめる時代がきたというのはびっくりであり、がきんちょのころレンタル屋さんで時間をかけて映画作品を選んでいた時期が懐かしい。中高時代に映画館に入り浸っていた僕には、映画やドラマという「ジャンル」が動画という「カテゴリー」に吸収されてしまう気がして、ちょびっとさみしい気持ちも湧いてくる。

 

数か月前の話になるのだが、ドキュメンタリー映画『再会長江』を観に京都新風館のアート系映画館uplinkさんに行ってみた。映画館でないと全編がみられない作品である。上映前に餃子とノンアルコールビールを飲んで入場。いつのまにか振る舞いが年をとっていく。入場後にこだわりのコーラもいただき、準備完了。

 

『再会長江』は日本人のドキュメンタリー映画作家さんが、10年ほど前に訪れたときに出会った人々に再び会いに行くというのがメインテーマになっている。上海、南京から武漢、三峡ダム、シャングリラなど長江流域を遡りながら、いろいろな人々と再会していく。10年前の映像も時折挿入され、大都会と山村という空間的な変化だけでなく、時間的な変化も実感できる編集になっている。変化のスピードは相当に速く、「飛行機はどうして落ちないの」と不安を吐露していた雲南地方の少女が、10年後にはスマホを駆使しながら立派な民宿を切り盛りしていた。

 

今回の映画を観て感じたのは、大きな変化の渦中にあるにもかかわらず、中国の人たちが楽しそうに生活されているということだった。裕福な人、貧しい人、都会の人、山村の人、いろいろな人が活写されていたが、みなさんしっかりと生活を営まれていた。むろん、ドキュメンタリーだから悩む人が取材されにくいのかもしれないが、社会変化にともなう軋轢のようなものはこの作品から僕は感じ取れなかった。となると、中国の人の生活スタイルは大きく変化しているものの、根底にあるメンタリティーのようなものはあまり変化していないのではないかという仮説が思い浮かぶ。あくまでこの映画をみた限りという但し書き付きではあるのだが。

 

もし、中国社会は軋轢を生みにくく、日本社会が軋轢を生みやすいのだとすれば、その理由をどう説明できるだろうか。映画館をでたばかりの僕は、中国の易姓革命と日本の転向という対比がポイントにならないかななどと考えてみた。だが、そのあとすぐに、長江流域の壮大な自然の映像がおもいだされ、「そうか、中国は日本よりもはるかに広大だったんだ」と感じたときにスッと腑に落ちた気がした。

 

帰り際に歩幅がすこし広くなるようなドキュメンタリー作品だった。

某国大統領選挙が盛り上がっている。先日、その演説会で大統領候補が銃撃されたというニュースが飛び込んできた。澄みきった青空と国旗を背景に、右耳付近から流血しながら拳を突き上げる候補者と、周囲を警護するサングラスと黒いスーツの人々をとらえた写真が報道された。あまりにも格好よいアングルに驚いた。

 

僕の第一感は、「似たような写真をどこかで見たことあるぞ」だった。似たような写真がなんだったのか、すこし考え込んだあとに、思い浮かんだのは、硫黄島にたてられた某国国旗の写真だった。

 

僕の第二感は、二つの似通った写真の違いだった。国旗と人間では、抽象度が異なる。現在の某国は、国旗による統合よりも、人間による統合のほうが希求されているのではないか。そういえば、「某国をもう一度偉大に」という前々回当選時のキャッチフレーズを、この候補者は最近口にしていない。国としての統一感を訴えることがマイナスと考えておられるのか。

 

前回選挙でこの候補者は落選したが、コロナ禍への対策が評価されなかった点が大きく響いたと僕は勝手に推測している。だが、大統領が変わってからウクライナ紛争が始まり、今度は現職大統領の国際的な舵取りに疑問符がつけられている。コロナ禍にしろウクライナ紛争にしろ、もっと上手くできなかったかといわれると反論しにくい難題である。だが、内政の問題処理と国際的な課題解決とでは、リーダーに求められる資質は異なるだろう。やっかいなのは、選挙の時期に主要な争点となる問題が大統領任期の四年間ずっと続くとは限らないし、全然別の大問題が起こることも十分にあり得るということである。

 

今回の事件が、狙われた候補者の後押しとなるのか、足を引っ張ることになるのか。僕は今のところ前者を予想している。

 

梅雨になると傘を使う機会が増える。仕事には折り畳み傘を持っていくことが多いのだが、先日とあるコンビニに立ち寄ったとき、傘立てに折り畳み傘用のエリアがもうけられていてびっくりした。

 

通常の傘に比べて、折り畳み傘は丈が短く、たたんでも太いため、これまでの傘立てだと上手く立てられないので、壁に立て掛けておいておくことが多かった。

 

その数日後に銀行のATMに立ち寄ったのだが、荷物を置くための台の端に、杖と傘を引っかけるための窪みがもうけられていた。

 

いつからそうなっていたのかわからないのだが、少しずつ色々な工夫と配慮が積み重ねられていることを知ると、日々をすこし能動的に過ごしてみたい気になってくる。その次の瞬間、否、能動的な生き方は時間制限付きでないと僕にはとても無理だと思ってしまうのではあるが。

 

僕の場合、やる気が意志に変化するために、工夫と配慮が欠かせないようである。

 

追記(2024.7.20)

中井久夫先生の『「昭和」を送る』を読み返していたら、折しも「勤勉と工夫」という項目があった。中井先生は対話篇の中で「日本人の勤勉は、「甘えの禁欲」の上に成り立っていると思う」と指摘された後、二宮尊徳を「偉大な哲学者」「疲弊した村の治療者」と高く評価されている。「彼(二宮尊徳)は、天道すなわちnatural wayは自然法則であって、畜生道であり、善悪を知らないと言っている。神の許しなしには鳥一羽も落ちないという考えとは対極だ。(中略)おそらく天道から見れば、荒れ地の方が天道にかなっているのであろうが、「それでは人道立ち申さず」というわけだ。(中略)それは予定救霊説とは正反対だけれども、結果的には、同じく勤勉と自己規律を生むわけだ」と指摘されている。R・N・ベラーや山本七平は石門心学や鈴木正三の禅を勤勉の背景に見出しているが、土居建郎先生、中井久夫先生の指摘も今後注目されてよいと思う。中井先生はさらに踏み込み、「ただの勤勉なら、日本人よりも勤勉な民族はいくらでもいる。わが国では、勤勉だけだとうつ病になりやすい。つまり勤勉だけではやりとおせないのだ。(中略)勤勉と工夫がセットになっているのだ」、「工夫とは、既存のものをあまり目立って変えないようにし、外見は些細に見える変更の積み重ねによって重大な障壁を迂回し、精力の浪費なくして、中程度の目標に達することだ」と指摘される。加えて、勤勉と工夫だけでは解決できない大問題が残りやすいという日本の特性ゆえに、バランス感覚とそれにむすびついた変身能力(転向)がしばしば必要になると述べられている。エッセイのなかでちらっと太平洋戦争期の枢密院に対して、「『あてにする』とは土居の指定の通り、甘えの堕落的形態だな。信頼せずして期待し、あてはずれが起こると『逆うらみ』する」と中井先生が嘆息されているところが印象深かった(以上の引用は『「昭和」を送る)』みすず書房、2013年、pp.101-105より)。

「信頼せずに期待する」などということにならないよう、心のゲリラ戦を展開していきたいと思っている。

 

以前、NHKの番組で紹介されたジャズピアニスト海野雅威さんについて書いたことがある。その海野さんが一年前の2023年5月に発表されたのが『I Am, Because You Are』である。

 

久々にアルバムタイトルを見て即買いした。このタイトルは英語圏ではしばしば耳にするフレーズのようであるが、短いけれども大切な意味を含んでいると思われる。和訳すると「私は在る、あなたが在るから」、あるいは「私は私である、あなたがあなたであるから」とでもなるだろうか。僕個人としては後者の訳のほうがしっくりする。

 

第一曲「Somewhere Before」から心に沁みた。静かな広がりをもつメロディと、ペースを変えながらコツコツと刻まれるリズムが心地よい。聴き終わったときにすこし気持ちが広がったように感じた。不思議な魅力をもったアルバムである。

 

暑さがきびしくなってきた。太陽光が暖かさよりも強さとして感じられる。人間には現象を自分にとっての快不快の感情とともに認知する特性がある。その意味で、人間は客観的である前に、まずは主観的である。そして、この人間の特性は、私において成り立ち、他者においても成り立つといってよいだろう。

 

さらにもう一段階洞察を深めたとき、私と他者の関係にbecauseを見出すことができるか。もしも見出すことができたとして、見出し続けることができるのか。あるいは、becauseは真理なのか解釈なのか、へそ曲がりの僕はついつい考えこんでしまう。だが、海野さんのアルバムを聴いているうちに、ピアノ・シンバル・ドラム・ベースのアンサンブルが、それこそがbecauseなのかもしれないという気になってきた。

 

音楽CDアルバムをタイトルを見て即買うというのは、僕にとって初めての経験だった。こんな誠実なタイトルを掲げるアーティストの音楽が、素晴らしくないはずがない。僕のはじめての即買いは、大当たりであった。

2024年も約半分すぎているのだが、ようやく2023年の読書記録最終版である。

 

■ハンス・ジンサー,橋本雅一訳『ネズミ・シラミ・文明』みすず書房,1966年
原著は1935年。邦訳には「伝染病の歴史的伝記」と副題がついており、著作の意図を的確に示唆してくれる。本書の主題は発疹チフスではあるが、その親類として日本洪水熱(ツツガムシ病)も紹介されていて、洪水が感染流行の契機として認識されていたことがうかがえる。また数々の戦争が兵士たちの間で流行した感染症によって終結した事例も紹介されている(巻末の感染症年表は保存版である)。戦場でブドウ酒が欠乏し、水を飲み始めてから伝染病が流行ったという記録もあるそうだ(本書345頁)。アルコールは酔って楽しむ以前に、安心して飲用できる水分なのである。個人的にジンサー博士がすごいと感じたのは、ヒトで激烈な症状をおこすウイルスが、他の種(ウサギやウシなど)に感染するとヒトへの病原性が減少し、ヒトの神経組織に対する親和性を獲得する(ただし、免疫が弱い個体では脳炎を引き起こしうるようにもなる)傾向があるという点を指摘している点だ(本書74頁)。ウイルスが向神経性を獲得するメカニズムとその意味は、最新の感染症学ではどのように考えられているのか気になった。


■姜在彦『朝鮮半島史』角川ソフィア文庫,2021年
司馬遼太郎さんのエッセイや対談で、古代朝鮮から日本列島にわたってきた渡来人、帰化人がたくさんいたことを知った。そうなると朝鮮の歴史について基本知識がないことに思い至り、手にとった入門的な一冊。読了して思ったのは、苛烈な三国時代(高句麗、新羅、百済)の後に、統一新羅を経て、中国王朝ですらなしえなかった400年近く続く王朝(高麗・李氏朝鮮)が出現した意味をもう少し理解したいということだった。個人的には、高句麗・新羅・百済それぞれから渡来人・帰化人が日本列島にやってきたのだろうが、どうやって争いなく過ごしていたのかが気になった。本国での争いが、日本にやってきて以降つづいたのか、つづかなかったのか、宿題が増えた読書になった。

■M・ワット,三木亘訳『地中海のイスラーム世界』ちくま学芸文庫,2008年
三木亘さんの本を読む中で手に取った一冊。イタリアのシチリア島が中世から近代にかけてイスラム化されていたことをこの本で知った。十字軍が、イスラム側からは関心の低い些細な周辺地域問題とみなされていたこと(同書160頁)、トマス・アクィナスがイスラム教は軍事力で広まったと誤解していたこと(149頁)などが興味深かった。

■宮崎市定『アジア史概説』中公文庫,1987年
この本にはトルコ、ペルシャ、インド、中国、日本と広大な範囲を「アジア史」として通観するという力業が収録されている。古代日本を扱う章で、「大陸の政変、民族移動のたびごとに、多数の人民が安住の地を求めて日本に渡来した」(同書415頁)という一文があり、その主張の論拠は示されていなかったが、なぜだかものすごく腑に落ちた。この本を読み終わってから中国史、朝鮮史、儒教、道教、マニ教、ゾロアスター教の文献を手にとるようになった。もしかすると大陸から日本に文化が伝わるときに、様々な宗教が混淆して受容されたのではないかと、想像は膨らむ。

 

■宮崎一定『中国史(上)(下)』岩波文庫,2015年
宮崎先生の本は、読みやすい文章ながら、はっとさせられる指摘も多く、楽しんでよめる。中国の通史としては抜群の読みやすさで、いわゆる景気史観(資質に優れた人物が名君になるのではなく、経済活動が盛んで人々の生活が豊かな時代の君主が名君とされる)は、とても説得力がある。宮崎先生は「外国にはないと思われる景気という言葉」を「通貨流通量が多く、容易に入手出来、しかも通貨に対する信用度が高い時が最も好景気の時代と言える」と説明している(『中国史(下)』360頁)。王陽明の学説が「でなければならぬ」という命令の形で組み立てられているのが特徴であるという指摘も、王陽明に影響を受けたとされる西田哲学のことが連想されて興味深かった(『中国史(下)』209頁)。

■酒井シヅ『病が語る日本史』講談社学術文庫,2008年

縄文時代から明治時代に至る医学的話題を紹介した本。縄文人は骨折しながらも歩き続けていたらしいこと、日本で牛痘種痘法が実施される1849年よりも50年以上前に秋月藩の緒方春朔によって安全性の高められた人痘種痘法が研究・実施されていたこと、この2点が特に印象深かった。

■阿満利麿『歎異抄講義』ちくま学芸文庫,2022年

歎異抄を解説する本で、結文の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」を正面から取り扱わない本はあまり読む意味がないと個人的におもっている。滝沢克己先生の『歎異抄と現代』然り。阿満さんのこの講義もきちんと結文を取り扱っているので好感が持てる。一番ハッとしたのは、「『称名』の『称』は、重さを比べるはかりの意味です。誓願の力と自分の力とでは、阿弥陀仏の力のほうが圧倒的に重いのだ、ということを示すのが称名の『称』の解釈なのです」(同書408頁)という箇所だった。この指摘を読んでから「称名」への理解がいままでよりも深まったように思われる。

 

■鈴木大拙、曽我量深、金子大栄、西谷啓治『親鸞の世界』法蔵館文庫、2011年

1961年に比叡山で行われた巨頭対談と講演を収録した本の文庫版。太平洋戦争を経て日本が失った自信をとりもどしつつあった時期に、鈴木大拙91歳、曽我量深86歳、金子大栄80歳、西谷啓治61歳が集って縦横無尽に話した貴重な記録である。91歳の鈴木大拙が「教行信証」の英訳をしていたという話から対談がスタートする。曽我・金子両氏の話は浄土真宗について知識がないと分かりにくいが、時折はさまれる鈴木大拙の発言は、仏教という枠を超えて笑いに達していて面白い。対談の最終盤で、西谷氏が「真宗とキリスト教がいかに似ているといっても、根本は違うと思うんです。だからそれを知らせることは、やはり非常に意味があると思うんです」と述べたあとに、鈴木氏が「仏教は大いに奮起せんならん。君らはまだ若い、これからなんだから」といって、西谷氏が「え?」と応答しているところが一番笑えた(同書339‐340p頁)。そのすぐあとに、鈴木氏がトインビーの宗教観を紹介し、インドの仏像の優れた点として座禅や涅槃の姿を像にしていると指摘する下りも印象深かった。笑いの後にサラッと重要ポイントをいうあたり、達人である。

■ダン・ショート他,浅田仁子訳『ミルトン・エリクソン心理療法 〈レジリエンス〉を育てる』春秋社,2014年

心理療法で達人と言えばエリクソンである。催眠療法が有名だが、晩年には簡潔な一言でクライエントを好循環に導く手法に移っていったことで、現代のブリーフセラピーの源流にもなっている。この本でエリクソンがポリオの後遺症で下肢不全麻痺を患っていたことをはじめてしった。自分の身体が思うようにならないときに、それでもある程度身体をあやつるためにエリクソンが工夫した個人的な技法が彼の臨床に生かされているようだ。エリクソンの言葉には、手法というひとことで片付けられない智慧があるように感じられた。

■坂口ふみ『〈個〉の誕生 キリスト教理をつくった人びと』岩波現代文庫,2023年
キリスト教を考えるときにキリスト両性論、三一論の理解は外せない。坂口先生の本はエッセイ風の筆致で、ギリシャ哲学とラテン教父神学の交流過程で、ヒュポスタシス=ペルソナという図式が成立した歴史を描いている。この本でもテルトゥリアヌスの先見性が幾度か指摘されている。やはりいつかは「不合理ゆえに吾信ず」に挑戦せねばなるまい。

 

■大塚節治『キリスト教要義』日本基督教団出版局,1971年

坂口先生の本だとキリスト論、三一論は「思想の歴史」として説明されているが、「信仰の歴史」として説明しているのが大塚先生の本。古い本だが、明快にきっちりと書かれている。大塚先生は、執筆時点で調べきれなかった点、調べたけれどわからなかった点について、その旨を明記されていて、非常に良心的である。教義学について確認したいことがあるたびに開くことになりそうだ。個人的に不思議だったのは、一見とっつきやすいエッセー風の坂口さんの本よりも、一見真面目で硬い感じの大塚先生の本のほうが親しみやすく感じたことである。印象の違いはどこからくるのか、僕はまだ自分の言葉で説明できないでいる。

 

■並木浩一・奥泉光『旧約聖書がわかる本 〈対話〉でひもとくその世界』河出新書,2022年
旧約学の泰斗並木先生と、その教え子の作家奥泉さんの対談をとおして旧約聖書の概要を学ぼうという一冊。丸山眞男の「自己内対話」から神の複数性を考えたり、イヴの想像力から大江健三郎に言及したり、さらっとレヴィ=ストロースの『野生の思考』が引かれたりと、並木先生の旧約学以外の学識に目を見張ることがおおかった。専門分野以外のことをどれだけ勉強しているのだろうか、この人は。奥泉さんのツッコミ力にもハッとさせられる。旧約聖書のテキストは、一文ごとに彫琢されてきたものであり、細かくつっこみながら読むとものすごい豊かな内容をもっているということが伝わる対談だった。並木先生の発言でハッとさせられたところを記しておく。「ユダヤ教を離れても信仰は個々人の責任だから処罰なんかない。そこがイスラムとの違いです。イスラムは原則として棄教できない」(76頁)。「幻想を抱かない人間が理想主義者になる。(中略)理想主義者は理想に到達できないのだということを覚悟する」(本書195頁)。

■阿部謹也、網野善彦、石井進、樺山紘一『中世の世界(上)(下)』中公新書、1981年

西洋中世史と日本中世史から2人ずつの気鋭の学者があつまり、対談した本。冒頭の「海・山・川」の章から飛ばしている。井上鋭夫さんの『一向一揆の研究』を参照しつつ、ワタリ(舟をあやつって交易や物資の運搬に従事する人)・タイシ(聖徳太子信仰をもち、箕作りや筏流しを業としていた)という非農業民が紹介されているのがおもしろかった。タイシの人々は、もともとは仏像や寺院の建造に携わる技術者であり、聖徳太子信仰をもっていたが、材料となる鉱山や山林と材料を運ぶ河川のそばに住むうちに山の民から川の民と変化していったと説明されている。個人的には聖徳太子創建と伝わる古寺は多すぎるぐらいあるのだが、そのなかにタイシの人々が作ったお寺も含まれているのだろうと想像した。ほかの章も興味深い問題提起がおおかったが、書ききれない。また折をみて読み返そうと思う。

 

■直木公彦『白隠禅師 ー健康法と逸話』日本教文社、昭和30年

江戸時代に独自の養生法、治療法を提唱したことで名高い白隠禅師の著作がコンパクトに紹介されている本。白隠禅師が京都の白幽仙人から教えをうけたという「軟酥(なんそ)の法」は、そのままでマインドフルネスとして通用しそうな内容をもっていた。個人的には、白隠禅師が地獄と極楽について教えてほしいと訪ねてきた武士に応対したときの逸話が面白かった。白隠禅師のおられた松蔭寺に一度は行ってみたいと思う。

 

■シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』みすず書房、1966年

旧約聖書を読むにはイスラエルの歴史をおおまかに知っていたほうがよいと思い手に入れた一冊。フランス革命がユダヤ人にもたらした解放感と、ナポレオン失脚後にユダヤ人が直面した迫害の対比につい言葉を失ってしまった。しかし、この本を読んでいると、近代の西洋が文明の優越を誇っていたとき、その文明を牽引したのがユダヤ系のキリスト教徒だったということがよくわかった。