Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

秋に差し掛かり、滝沢克己先生の『現代の医療と宗教』(創言社、1991年)を読んでいたら、驚くべき箇所にであった。もともとこの本は、滝沢先生が、当時の新興宗教である「清明教」の教義や浄霊の業(てかざし)について真剣に論じている問題の書である。しかし、今回読み通すなかで、同書227頁の註で、“「覚触」ー禅の眼覚めについて、内山興正老師が創出された用語”と記載があり、僕は瞠目した。

 

滝沢克己先生は西田幾多郎、カール・バルトに学び、「インマヌエルの原事実」という、いわば仏教とキリスト教を通底しうる論理的枠組(そういう表現が適切かはさておき)を提示したことで知られる。滝沢先生の禅への言及は、久松真一氏の論文「無神論」への批判的応答を中心とした『佛教とキリスト教』(法蔵館、1964年)が有名である。僕が読んだ限り、滝沢先生が内山興正老師の「覚触(かくそく)」へ言及しているのは、『現代の医療と宗教』においてだけである。

 

内山興正氏は、もともとはカトリック神学を学び、宮崎公教神学校教師となったが、29歳で沢木興道老師について得度し、安泰寺を守ってきた禅僧として知られている。昨今仏教界で活発な発言をされているネルケ無方さん、藤田一照さん、山下良道さんはみな安泰寺の内山興正老師のもとで修行された面々である。

 

少し前の夏に、内山老師の遺作である『拈自己抄』(大法輪閣、2019年)を読了した。この本は、内山老師の弟子筋の方々は言及することの少ない書物である。おそらく、内山老師が堂々とキリスト教について肯定的な評価をしているからであろう。「若いころ学んだキリスト教も捨てることはしませんでした。引き続き『聖書』を読みつつ座禅し、座禅しつつ『聖書』をあたためてきています」(同書26頁)、「私がこのように仏教に対してもキリスト教に対しても、自らを一信徒として身を置く所以は、仏教もキリスト教も同じく自己の深さを教えてくれる宗教だからです」(同書137頁)などの文章は、「自己ぎりの自己」から仏教もキリスト教も見直すという内山老師の立ち位置が分かりやすく示されている。

 

滝沢克己先生の「インマヌエルの原事実」と内山興正老師の「覚触」がどのように重なり、どのようにズレるのか。そのあたりを考えることで、仏教・キリスト教という形式で見えにくくなっている真実が、顕れてくるのではないだろうか。鍵は、キリスト教と仏教を一種の自己論として読むところにありそうだ。先は長くなりそうだが、これからも両先達の文章に学びながら、自分なりに進めていこうと思う。

飢餓状態で急に栄養をとると、電解質異常・循環動態の破綻などを伴うリフィーディング症候群という致死的な病態が起きる。現代でもアルコール依存症や摂食障害で慢性的な低栄養状態にある人が急に栄養をとる時に起こりうるため、注意が必要とされている。

 

豊臣秀吉による鳥取城の兵糧攻めでリフィーディング症候群が起きたのではないかという論文が2023年に発表された。開城後に救援として支給された食料を急にたべたことで多数の死者が出たと『信長公記』に記されている。

 

先日、今谷明『中世奇人列伝』(草思社文庫、2019年)を読んでいたら、足利義政の治世に飢饉が起こり、願阿弥という聖が、京都六角堂のそばに飢えた人々の収容所を作り、粥・味噌汁を施したという話がとりあげられていた。だが、『経覚私要鈔』によると、粥・味噌汁を食べて死ぬ人が毎日300~500人にのぼり、願阿弥の弟子2人が病死、願阿弥自身も病となり、20日でこの慈善事業は中止となったという。

 

願阿弥の施行を慈悲深い行為としてたたえる意見がある一方で、せっかくの施食も多くの死者を出すこととなり、飢民は前世の因縁によって死んでいくにすぎないのに、施食することは返って神仏の意志に背くことになるのではないかという意見もあったようである。

 

おそらくだが、願阿弥の施行によって飢民はリフィーディング症候群を起こしたのではないだろうか。良かれとおもってしたことが、かえって悲劇的な結末を招くことはしばしばある。当時の願阿弥の苦悩はいかほどだったろうか。願阿弥は悲劇にめげることなく、応仁の乱で荒廃した清水寺の再興のために勧進を担当し、晩年は清水寺の成就院に住んでいたという。

 

ちなみに豊臣秀吉は、鳥取城の戦いのあとも何度か兵糧攻めを行っているのだが、相手が降伏し、救援の食料をふるまうときは、急いで食べないように注意していたらしい。

 

人間は少しずつ学んでいくようだ。

年次をとると職場関係の研修にいくことが増える。この夏は東京と福岡でそれぞれ2泊3日の研修があった。僕は普段いかない場所にいくとき、時間が許せばその地域の本屋さん、とくに古本屋さんを訪ねるようにしている。出張と古本は僕のなかでは、ケーキとコーヒーとならぶ相性である。

 

東京出張では、台風近づく中、東海道新幹線の運行が不安定となり、はじめて北陸新幹線での上京となった。東京のホテルは混んでいて、値段もびっくりするほど高く、今回やむなくカプセルホテル2泊を経験した。お風呂やサウナが付いてるのは助かるが、さすがに年を取るとゆっくり休めない。研修前に栄養ドリンクを飲んでなんとか乗り切るありさまであったが、体力の衰えと向き合わざるを得ない出張になった。いつも出張でしかお邪魔しない東京だが、今回面白く思ったことは、色々なお店の店員さんに色々な肌の色の人がいたこと、カプセルホテルの目の前に24時間営業の居酒屋さんがあって終電後も盛り上がっていたことだった。喧騒が苦手な僕は、1日目の研修終わった夕方に谷中墓地まで足をむけた。日暮里駅を降りて薄暗い坂道をあるいていると、急に京極夏彦さんの世界が広がる。東京出張で一番充電になった瞬間だった。力尽きて本屋さんはいけなかったのだが、研修会場の近くで「切腹最中」という和菓子を見つけたのがよい思い出になった。

 

福岡出張は、職場の同僚のかたと4人組で。1日目は博多ラーメンともつ鍋、2日目は博多ラーメン(別のお店)と鳥皮、と食べ過ぎない程度に地元グルメを堪能した。1日目夜は、食事会解散の後、長年行きたいと思っていた名島の「滝沢克己記念館」を訪れた。開館時間が過ぎていることも知っていたが、外観だけでもと思い、西鉄名島駅を降りた。坂の上の住宅地にひっそりと建っている滝沢先生旧宅跡の石碑を拝見して、満たされた気持ちでホテルに戻った。2日目は博多駅前のブックオフを訪問。ドラえもんを大人買いする外国人に驚きながら、本棚とにらめっこし、猪木正道『日本の運命を変えた七つの決断』(文春学芸ライブラリー)、加藤九祚『ユーラシア文明の旅』(中公文庫)、宮崎市定『論語の新しい読み方』(岩波現代文庫)を購入した。

 

数か月遡るが、後輩の出演するコンサートを聴きに福井県までお邪魔した時、帰り道に敦賀駅前の「ちえなみき」に寄ることができた。「ちえなみき」は先日亡くなられた松岡正剛さんがプロデュースした書店である。ちょうど福井を訪れるすこし前に、中井久夫先生のお弟子さんたちの論文集『治療のテルモピュライ ー中井久夫の仕事を考え直すー』(星和書店)のタイトルが、ペルシャ戦争のなかの有名な戦闘であることを知ったばかりであった。「治療場面でのここぞというとき」を示すのにデルモピュライをもってくる中井先生の感覚にすこしでも近づきたいと思い、「ちえなみき」を訪れた記念にヘロドトス『歴史 上中下』(岩波文庫)を購入した。

 

どこで本を読むか以外に、どこで本を買うかも、僕の人生においては大切なことのような気がする。不思議なことに、そのとき関心を持っている分野の本に偶然訪れた(古)本屋さんで出会うという経験を僕は何度かしている。だから、(古)本屋さん巡りはやめられない。

友人と会うと「AIが凄いね」と言う話が時々出る。先日参加したコンサートではチラシ・パンフレットともにAIが提案してくれたデザインが使われていた。話し合いで迷ったときに論点をまとめてAIに聞いてみるのはすでに定例となっている。

 

先日、とある記事で「AI時代でも人がになう医療」として終末期医療、精神科医療が挙げられていた。果たしてそうか?と思う。

 

AIの特徴は「膨大な知識を持つ」と「実技ができない」であると僕は思う。このポイントから容易に想像できるように、AIには手術をこなすことができない。一般の人はあまり知らないが、いわゆる総合病院では内科系・外科系ともに侵襲的な手技を伴う大小様々な手術がある。内服薬だけではいかんともしがたい疾患がまたまだあり、手技・処置・手術が必要とされる限り、AIではない人(術者)の力は欠かせない。とある記事の発想とは異なり、「AI時代でも人がになう医療」という言葉から僕がすぐに思い浮かべたのは、外科だった。

 

記事に挙げられていた終末期医療と精神科医療医療では、コミュニケーションという「実技」がAIには置換できないとされていた。しかし、対話型AIが登場し、かなりのレベルの医療面接に対応できるようになっている。患者さんが病院に行かずにまずはAIに相談し、AIと対話することで自己解決できるようになる時代はそう遠くないと僕は思う。少なくとも、AIとロボットに一連の手術をまるごと任せられる時代よりも、精神科医療の大半がAIに担われる時代のほうが早く来るだろう。

 

ではAIに担うことのできない精神科医療はあるのか?もちろんある。それは自分の状態が異常だと思えず、AIに相談しようという発想が出てこない患者さんたちへの対応である。精神保健福祉法に基づく入院の必要性判断には、しばしば手術に似た計画性、言動への配慮が要求される。外来治療でも「自分は病気ではない」と主張する患者さんへの対応が最も難しい。

 

精神科領域では、「自分は病気である」と主張する患者さんへの対応で、対話型AIが医療者の力量を超える日は近いと思われる。いや、すでに超えているのかもしれない…。

 

一昔前であれば、膨大な時間と労力を投入して咀嚼する必要のあった人類の過去の叡智に、AIを通して気軽に触れられるようになったことは、ものすごいと思う。段々と、AIに相談することは、長老や賢人の知恵を拝借することに似てくるのではないかと僕は予想し、その方向性を歓迎したいと考える。

 

その一方で、一昔前生まれの人間である僕は、過去の叡智に触れる膨大な時間の楽しさが段々と体験されなくなっていくだろうことに、少し寂しさを感じる。たぶん僕は、AIが節約してくれることで増えた自分の時間の使い方に、まだ自信がないのだろう。

2025年7月20日に参議院選挙があった。結果からすると自民党・公明党がはじめて衆参両院ともに過半数割れとなった。共産党、社民党も議席をへらし、立憲民主党・国民民主党・維新の会があまり変わらず、参政党ほかいろいろな新しい政党・会派の台頭がみられた。大まかにみると、古参が苦戦、中堅が横ばい、新入りが躍動と整理できる。

 

ついに、政治の世界も「新鮮さ」が売りとなる時代に入ったように見えなくもない。だが、各党の主張を比べてみると、「減税」「少子化対策」「貧困対策」「教育・福祉の充実」など大きな方向性は共有されており、その大きな方向性の中での程度や手段の差ぐらいにしか、それぞれが違いを表せていない。どの主張にも新鮮味はなく、既視感をぬぐえないものとなっている。大事とされる問題について多くの人数から支持を得ようとすると、どうしても各党の主張が収斂してしまうからである。どうやら「新鮮さ」は、主に党名の看板書き換えによって担保されているようである。

 

ちなみに、僕はNHKの選挙サイトで自分と意見の合う政党を判定する便利なアンケートを利用したのだが、一番意見が近い政党でも意見の一致率は50%だった。この一致率を高いとみるか、低いとみるかは意見が分かれるところだろう。自分の考えと重なる政党や候補者がそもそもないという人は案外多いのではないだろうか。

 

そうなると、僕の場合、政策内容うんぬんというよりは、候補者なり政党なりが「ちゃんとやってくれそうか」「ちゃんとやれないときはそのことをちゃんと正直に言ってくれそうか」という観点から投票先をきめることになる。「ちゃんとやる」の定義はなかなか難しいが、今のところの僕の暫定的な定義は「自分の主張を通すための議論に固執せず、議論の結果によっては主張を変えることができるひとたち」ということになる。

 

この定義によると意外にも石破首相が高評価になってしまう。もしかすると、自民党内で出てきた「石破おろし」に対して「石破やめるな」というデモがおこっているのは、この定義で政治を評価している人がある程度いるということなのかもしれない。

 

選挙で敗れた与党党首に「辞めるな」運動がでてきたのは、目新しく、面白い。おそらくこの運動をする人たちにとって石破首相は、選挙はダメだが政治はしっかりやっていると評価されているのだろう。そういう政治家は党員にとっては困るだろうが、国民にとってはありがたい存在である。

 

ちなみに「石破おろし」の理屈として「民意は示された」といわれているが、示されたのは投票した58%の意見だけであり、残り40%の人は今の政治で良くも悪くもないといっていると考えられる。そのことは忘れずにいたほうよいだろう。

 

最後に。参政党の躍進が目立ったとされているが、先だっての兵庫県知事選挙と今回の参政党躍進とに似た匂いを感じたのは僕だけだろうか。そういえば、やんちゃな主張をする人が良識派から叩かれたあとに票を伸ばすという構図は、海の向こうでも見られている。海の向こうの大統領は実は戦略的な凄腕であると僕は思うのだが、日本の知事と政党は果たしてどうだろう。良識派の人たちは、そろそろ「叩く」という攻撃的戦略を見直すべき時期に来てはいないか。

 

新入り政党の主張に陳腐さがみられ、「石破辞めないで」運動に新鮮さを感じた今回の参議院選挙であった、と今の僕は思っている。

 

追記:政治とは原則的にモヤモヤする営みである、と僕は思っている。しかし、昨今、政治にスッキリ感を求めている人が多くなってきてはいないだろうか。政治にふさわしいのは、論破ではなく交渉である。僕はそう思っているのだが、政治を外交のように見なし過ぎているだろうか。