Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

新年が明けた。この数年痛感していることだが、本と言えば持ち運びやすい新書を読むことが増えた。残念なことに単行本がなかなか進まない。紙質が悪くなってもいいので、単行本をもっと軽く作ってもらいたいなというのが個人的な願いである。本を置くスペースにも限りがあるので、なるべくならかさばらない・軽い本であると助かる。と、つぶやきつつ昨年の読書記録を書いておく。

 

・速水融『歴史人口学で見た日本』文春新書、平成13年

宗門改帳をもとに地域の人口動態を明らかにされてきた速水融さんが、学究生活を振り返りながら歴史人口学を紹介する手頃な本。日露戦争時の陸軍が白米食のために脚気になっていたというのは有名な事実だが、「陸軍に入れば美味しい白米を腹いっぱい食べられるということをダシにして徴兵を行った」(同書156頁)ことをこの本で知った。西洋の産業革命に対して、日本の江戸時代におきた「勤勉革命」によって生活水準があがった(同書98頁)、都市の住民は農村と比べて早死にだ(同書129頁)など、面白い指摘がたくさんあった。

 

・バーナード・リーチ『バーナード リーチ日本絵日記』講談社学術文庫、2002年

1952年にリーチさんが日本に滞在したときの絵日記。陶芸作家のリーチ氏は絵も上手で、人物や風景の特徴を捉えたスケッチが多数収載されていて、それらを見るだけでも楽しい。リーチ氏は視覚的人間なのだとおもう。「第三次世界大戦は必要であり、不可避であるように思われる。必要というのは、西洋人とその文明に十分な謙虚さをもたらすためである」(同書215頁)といったハッとする記述もあった。

 

・安丸良夫『出口なお 女性教祖と救済思想』岩波現代文庫、2013年

大本教の教祖出口なおさんの生涯を歴史学の手法で描いた評伝。真面目で謙虚に頑張っていたなおさんが、いよいよ困窮して行き詰ったときに神がかりが起こり、その後宗教者として活動するようになる過程が描かれている。広まりつつあった種痘を穢れとして避けたり、病気直しから教団が発展した経緯など、興味深い記述にあふれている。

 

・蓮實重彦『見るレッスン 映画史特別講義』光文社新書、2020年

立ち読みしたあとがきに丸山眞男『日本の思想』を悪趣味と断じるさすがの節まわしに引かれて購入した一冊。「思いがけない瞬間に驚きが訪れ、その驚きがこれまで自分の全く知らなかったものであると同時に、どこかで自分の中にあった何かに似ているのではないかという安堵感。それが映画独特の魅力であり」(同書190頁)、「キャメラを向けて撮れば、すべてがフィクションになってしまうということに気づかねばなりません」(同書200頁)という箇所にハッとさせられた。

 

以下はとりあえず書名のみあげておく。感想はまた随時追記できるときにしていきたい。

 

・司馬遼太郎『菜の花の沖』文春文庫、1987年(全6巻)

・片山杜秀『左京・遼太郎・安二郎 見果てぬ日本』新潮文庫、令和5年・月本昭男『古典としての旧約聖書』ちくま学芸文庫、2025年

・清水將之『災害の心理』(創元社、2006年)

・NHKメルトダウン取材班『福島第一原発事故の「真実」』(講談社文庫、2024年、「ドキュメント編」、「検証篇」の2冊からなる)

・小出裕章『原発はいらない』幻冬舎ルネッサンス新書、2011年

・野中郁次郎他『失敗の本質 日本軍の組織的研究』(中公文庫、1991年)

・山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』文春文庫、1987年

・猪木正道『日本の運命を変えた七つの決断』文春学芸ライブラリー、2015年

・野村實『海戦史に学ぶ』文春文庫、1994年

・倉本一宏『蘇我氏ー古代豪族の興亡』中公新書、2015年

・倉本一宏『藤原氏ー権力中枢の一族』中公新書、2017年

・伊藤正敏『寺社勢力の中世ー無縁・有縁・移民』ちくま新書、2008年

・伊藤正敏『無縁所の中世』ちくま新書、2010年

・今谷明『中世奇人列伝』草思社文庫、2019年

・神田千里『戦国と宗教』岩波新書、2016年

・皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社学術文庫、2009年

・皆川達夫『バロック音楽』講談社学術文庫、2006年

・岡田暁生『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』中公新書、2005年

・沼野雄司『現代音楽史 闘争しつづける芸術のゆくえ』中公新書、2021年

・上垣内憲一『暗殺・伊藤博文』ちくま新書、2000年

・上垣内憲一『勝海舟と幕末外交 イギリス・ロシアの脅威に抗して』中公新書、2014年

・上垣内憲一『文禄・慶長の役 空虚なる御陣』講談社学術文庫、2002年

・上垣内憲一『日本文化交流小史』中公新書、2000年

・入江昭『日本の外交 明治維新から現代まで』中公新書、昭和41年 

・入江昭『新・日本の外交 地球化時代の日本の選択』中公新書、1991年

・大澤真幸『社会学史』講談社現代新書、2019年

・東畑開人『カウンセリングとは何か 変化するということ』講談社現代新書、2025年

・唐木順三『朴の木 人生を考える』講談社学術文庫、1977年

・甲野善紀『古武術からの発想』PHP文庫、2003年

・養老孟司・甲野善紀『自分の頭と身体で考える』PHP文庫、2002年

・山形孝夫『砂漠の修道院』平凡社ライブラリー、1998年

・宮田光雄『キリスト教と笑い』岩波新書、1992年

・小川鼎三『医学の歴史』中公新書、1964年

・カレル・チャペック『白い病』岩波文庫、2020年

・内村祐之『精神医学者の滴想』中公文庫、昭和59年

・井上章一『狂気と王権』講談社学術文庫、2008年

・デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』ちくま学芸文庫、2004年

・高取正男『仏教土着 その歴史と民族』NHKブックス、昭和48年

・内山興正『坐禅の意味と実際 生命の実物を生きる』大法輪閣、平成15年

・L・ヴィトゲンシュタイン『秘密の日記』春秋社、2016年

・藤井一照・永井均・山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する』春秋社、2016年

・藤井一照・永井均・山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』春秋社、2020年

・伊藤漸『胃は悩んでいる』岩波新書、1997年

・貝谷久宣『脳内不安物質 不安・恐怖症を起こす脳内物質をさぐる』講談社ブルーバックス、1997年

・甘利俊一『脳・心・人工知能』講談社ブルーバックス、2025年

秋に差し掛かり、滝沢克己先生の『現代の医療と宗教』(創言社、1991年)を読んでいたら、驚くべき箇所にであった。もともとこの本は、滝沢先生が、当時の新興宗教である「清明教」の教義や浄霊の業(てかざし)について真剣に論じている問題の書である。しかし、今回読み通すなかで、同書227頁の註で、“「覚触」ー禅の眼覚めについて、内山興正老師が創出された用語”と記載があり、僕は瞠目した。

 

滝沢克己先生は西田幾多郎、カール・バルトに学び、「インマヌエルの原事実」という、いわば仏教とキリスト教を通底しうる論理的枠組(そういう表現が適切かはさておき)を提示したことで知られる。滝沢先生の禅への言及は、久松真一氏の論文「無神論」への批判的応答を中心とした『佛教とキリスト教』(法蔵館、1964年)が有名である。僕が読んだ限り、滝沢先生が内山興正老師の「覚触(かくそく)」へ言及しているのは、『現代の医療と宗教』においてだけである。

 

内山興正氏は、もともとはカトリック神学を学び、宮崎公教神学校教師となったが、29歳で沢木興道老師について得度し、安泰寺を守ってきた禅僧として知られている。昨今仏教界で活発な発言をされているネルケ無方さん、藤田一照さん、山下良道さんはみな安泰寺の内山興正老師のもとで修行された面々である。

 

少し前の夏に、内山老師の遺作である『拈自己抄』(大法輪閣、2019年)を読了した。この本は、内山老師の弟子筋の方々は言及することの少ない書物である。おそらく、内山老師が堂々とキリスト教について肯定的な評価をしているからであろう。「若いころ学んだキリスト教も捨てることはしませんでした。引き続き『聖書』を読みつつ座禅し、座禅しつつ『聖書』をあたためてきています」(同書26頁)、「私がこのように仏教に対してもキリスト教に対しても、自らを一信徒として身を置く所以は、仏教もキリスト教も同じく自己の深さを教えてくれる宗教だからです」(同書137頁)などの文章は、「自己ぎりの自己」から仏教もキリスト教も見直すという内山老師の立ち位置が分かりやすく示されている。

 

滝沢克己先生の「インマヌエルの原事実」と内山興正老師の「覚触」がどのように重なり、どのようにズレるのか。そのあたりを考えることで、仏教・キリスト教という形式で見えにくくなっている真実が、顕れてくるのではないだろうか。鍵は、キリスト教と仏教を一種の自己論として読むところにありそうだ。先は長くなりそうだが、これからも両先達の文章に学びながら、自分なりに進めていこうと思う。

飢餓状態で急に栄養をとると、電解質異常・循環動態の破綻などを伴うリフィーディング症候群という致死的な病態が起きる。現代でもアルコール依存症や摂食障害で慢性的な低栄養状態にある人が急に栄養をとる時に起こりうるため、注意が必要とされている。

 

豊臣秀吉による鳥取城の兵糧攻めでリフィーディング症候群が起きたのではないかという論文が2023年に発表された。開城後に救援として支給された食料を急にたべたことで多数の死者が出たと『信長公記』に記されている。

 

先日、今谷明『中世奇人列伝』(草思社文庫、2019年)を読んでいたら、足利義政の治世に飢饉が起こり、願阿弥という聖が、京都六角堂のそばに飢えた人々の収容所を作り、粥・味噌汁を施したという話がとりあげられていた。だが、『経覚私要鈔』によると、粥・味噌汁を食べて死ぬ人が毎日300~500人にのぼり、願阿弥の弟子2人が病死、願阿弥自身も病となり、20日でこの慈善事業は中止となったという。

 

願阿弥の施行を慈悲深い行為としてたたえる意見がある一方で、せっかくの施食も多くの死者を出すこととなり、飢民は前世の因縁によって死んでいくにすぎないのに、施食することは返って神仏の意志に背くことになるのではないかという意見もあったようである。

 

おそらくだが、願阿弥の施行によって飢民はリフィーディング症候群を起こしたのではないだろうか。良かれとおもってしたことが、かえって悲劇的な結末を招くことはしばしばある。当時の願阿弥の苦悩はいかほどだったろうか。願阿弥は悲劇にめげることなく、応仁の乱で荒廃した清水寺の再興のために勧進を担当し、晩年は清水寺の成就院に住んでいたという。

 

ちなみに豊臣秀吉は、鳥取城の戦いのあとも何度か兵糧攻めを行っているのだが、相手が降伏し、救援の食料をふるまうときは、急いで食べないように注意していたらしい。

 

人間は少しずつ学んでいくようだ。

年次をとると職場関係の研修にいくことが増える。この夏は東京と福岡でそれぞれ2泊3日の研修があった。僕は普段いかない場所にいくとき、時間が許せばその地域の本屋さん、とくに古本屋さんを訪ねるようにしている。出張と古本は僕のなかでは、ケーキとコーヒーとならぶ相性である。

 

東京出張では、台風近づく中、東海道新幹線の運行が不安定となり、はじめて北陸新幹線での上京となった。東京のホテルは混んでいて、値段もびっくりするほど高く、今回やむなくカプセルホテル2泊を経験した。お風呂やサウナが付いてるのは助かるが、さすがに年を取るとゆっくり休めない。研修前に栄養ドリンクを飲んでなんとか乗り切るありさまであったが、体力の衰えと向き合わざるを得ない出張になった。いつも出張でしかお邪魔しない東京だが、今回面白く思ったことは、色々なお店の店員さんに色々な肌の色の人がいたこと、カプセルホテルの目の前に24時間営業の居酒屋さんがあって終電後も盛り上がっていたことだった。喧騒が苦手な僕は、1日目の研修終わった夕方に谷中墓地まで足をむけた。日暮里駅を降りて薄暗い坂道をあるいていると、急に京極夏彦さんの世界が広がる。東京出張で一番充電になった瞬間だった。力尽きて本屋さんはいけなかったのだが、研修会場の近くで「切腹最中」という和菓子を見つけたのがよい思い出になった。

 

福岡出張は、職場の同僚のかたと4人組で。1日目は博多ラーメンともつ鍋、2日目は博多ラーメン(別のお店)と鳥皮、と食べ過ぎない程度に地元グルメを堪能した。1日目夜は、食事会解散の後、長年行きたいと思っていた名島の「滝沢克己記念館」を訪れた。開館時間が過ぎていることも知っていたが、外観だけでもと思い、西鉄名島駅を降りた。坂の上の住宅地にひっそりと建っている滝沢先生旧宅跡の石碑を拝見して、満たされた気持ちでホテルに戻った。2日目は博多駅前のブックオフを訪問。ドラえもんを大人買いする外国人に驚きながら、本棚とにらめっこし、猪木正道『日本の運命を変えた七つの決断』(文春学芸ライブラリー)、加藤九祚『ユーラシア文明の旅』(中公文庫)、宮崎市定『論語の新しい読み方』(岩波現代文庫)を購入した。

 

数か月遡るが、後輩の出演するコンサートを聴きに福井県までお邪魔した時、帰り道に敦賀駅前の「ちえなみき」に寄ることができた。「ちえなみき」は先日亡くなられた松岡正剛さんがプロデュースした書店である。ちょうど福井を訪れるすこし前に、中井久夫先生のお弟子さんたちの論文集『治療のテルモピュライ ー中井久夫の仕事を考え直すー』(星和書店)のタイトルが、ペルシャ戦争のなかの有名な戦闘であることを知ったばかりであった。「治療場面でのここぞというとき」を示すのにデルモピュライをもってくる中井先生の感覚にすこしでも近づきたいと思い、「ちえなみき」を訪れた記念にヘロドトス『歴史 上中下』(岩波文庫)を購入した。

 

どこで本を読むか以外に、どこで本を買うかも、僕の人生においては大切なことのような気がする。不思議なことに、そのとき関心を持っている分野の本に偶然訪れた(古)本屋さんで出会うという経験を僕は何度かしている。だから、(古)本屋さん巡りはやめられない。

友人と会うと「AIが凄いね」と言う話が時々出る。先日参加したコンサートではチラシ・パンフレットともにAIが提案してくれたデザインが使われていた。話し合いで迷ったときに論点をまとめてAIに聞いてみるのはすでに定例となっている。

 

先日、とある記事で「AI時代でも人がになう医療」として終末期医療、精神科医療が挙げられていた。果たしてそうか?と思う。

 

AIの特徴は「膨大な知識を持つ」と「実技ができない」であると僕は思う。このポイントから容易に想像できるように、AIには手術をこなすことができない。一般の人はあまり知らないが、いわゆる総合病院では内科系・外科系ともに侵襲的な手技を伴う大小様々な手術がある。内服薬だけではいかんともしがたい疾患がまたまだあり、手技・処置・手術が必要とされる限り、AIではない人(術者)の力は欠かせない。とある記事の発想とは異なり、「AI時代でも人がになう医療」という言葉から僕がすぐに思い浮かべたのは、外科だった。

 

記事に挙げられていた終末期医療と精神科医療医療では、コミュニケーションという「実技」がAIには置換できないとされていた。しかし、対話型AIが登場し、かなりのレベルの医療面接に対応できるようになっている。患者さんが病院に行かずにまずはAIに相談し、AIと対話することで自己解決できるようになる時代はそう遠くないと僕は思う。少なくとも、AIとロボットに一連の手術をまるごと任せられる時代よりも、精神科医療の大半がAIに担われる時代のほうが早く来るだろう。

 

ではAIに担うことのできない精神科医療はあるのか?もちろんある。それは自分の状態が異常だと思えず、AIに相談しようという発想が出てこない患者さんたちへの対応である。精神保健福祉法に基づく入院の必要性判断には、しばしば手術に似た計画性、言動への配慮が要求される。外来治療でも「自分は病気ではない」と主張する患者さんへの対応が最も難しい。

 

精神科領域では、「自分は病気である」と主張する患者さんへの対応で、対話型AIが医療者の力量を超える日は近いと思われる。いや、すでに超えているのかもしれない…。

 

一昔前であれば、膨大な時間と労力を投入して咀嚼する必要のあった人類の過去の叡智に、AIを通して気軽に触れられるようになったことは、ものすごいと思う。段々と、AIに相談することは、長老や賢人の知恵を拝借することに似てくるのではないかと僕は予想し、その方向性を歓迎したいと考える。

 

その一方で、一昔前生まれの人間である僕は、過去の叡智に触れる膨大な時間の楽しさが段々と体験されなくなっていくだろうことに、少し寂しさを感じる。たぶん僕は、AIが節約してくれることで増えた自分の時間の使い方に、まだ自信がないのだろう。