• 子規思いの漱石
  • 子規に愚痴る漱石
  • 二人の文学論

子規思いの漱石

 漱石は東京大学予備門改め第一高等学校本科(漱石在学中に学制が変わったため呼び名が変わった)に進級した年、正岡子規と出会う。共に22歳の時である。この二人は共に強く影響しあった親友といってよいだろう。漱石の書簡集(定本漱石全集 岩波書店)に収められた書簡は明治22513日から始まっているのだが、何と初めから連続29通の書簡全て子規宛である。それは明治2642日まで続いている。

(帝国大学時代の正岡子規 Wikipedia)

最初の手紙は、喀血した子規を寄宿舎に見舞いに行った後、子規を励ましたものである。

 この手紙の中で、漱石はわざわざ子規の担当医に病状について問いただし、入院するほどではないが、今が肝心なので重篤にならないように養生するようにとの医師の見立てを伝え、更に東大付属病院の第一医院に入院すればすぐに良くなるとも勧めている。母のため、ひいては日本のためにしっかり養生するように諭し、次の英文で締めくくっている。

 to live is sole end of man! (生きることこそ、人間の唯一の目的)

22歳の漱石がお節介なまでに友人思いの性質であったことがわかる。

(帝国大学時代の夏目漱石Wikipedia)
 

この時のことを子規自身が「子規子」という文章に書いているので、それを以下に引用する。これは子規が閻魔大王の前に引き出され裁判を受けるという滑稽な筋立てで、閻魔大王に対して子規が答えている。


 「59日夜に突然喀血しました しかし自分は喀血とは知らず咽喉から出たのだと思いました。(中略)夜に入りて帰るとまた喀血しました それが十一時頃でありましたが、それより一時ころまでの間に「時鳥(ホトトギス)」という題にて発句を四,五十ほど吐きました もっともこれは脳から吐いたので肺からではありませぬから 御心配なきようイヤ御取違えなきよう願います これは旧暦でいいますと卯月といって卯の花の盛りでございますし かつ前申す通り私は卯の年生まれですから まんざら卯の花に縁がないでもないと思いまして『卯の花をめがけてきたか時鳥』『卯の花の散るまで鳴くか子規(ホトトギス)』などとやらかしました また子規という名もこの時から始まりました。」


 血を吐いてなお、文章を書き続けようとする自分をホトトギス(子規)になぞらえ、以後自分のペンネームとしたのである。

ちなみにこの裁判の結果子規は閻魔大王から余命10年を宣告される。ほぼこの寓話の通り子規は13年後の35歳で命尽き、死ぬまで俳句を詠み、文章を書き続けるのである。

 

手紙の最後に漱石は自作の俳句を二句載せている。


 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ホトトギス)


この句がどの様な意味になるのかを理解するためには、ホトトギスにまつわる中国の故事を知らなければならない。

  ホトトギスは他に「杜宇」「蜀魂」「不如帰」とも書く、これは中国の故事や伝説にもとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝(ぼうてい)」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝の方は山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いたのでホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。

 つまり、病気で気弱になった子規を故事に出てくる帰りたいと鳴くホトトギスにたとえて、帰ろふと泣かずに笑え、と励ましたのである。


 二句目の句は


聞かふとて誰も待たぬに時鳥


というものだ。この句は意味が分かりずらいが、蜀の国が秦によって滅ぼされ、ホトトギスが今はない蜀に帰りたいといって鳴いていることを考え合わせると、帰る道を聞こうとしても誰も待つ者はいない、古い国にしがみつかずに新しい国、時代に皆進んでいるのだから共に進んでいこうじゃないか、と言って子規を叱咤激励しているように読める。時あたかも明治22年といえば明治憲法が発布され翌年からは帝国議会が開かれ日本も新しい立憲君主国家へと変貌を遂げつつあるときであった。

  

子規に愚痴る漱石

 また反対に漱石が子規に対して愚痴をこぼしていることもある。明治238月松山に帰省している子規宛に手紙の中で、眼病も良くなく本も読めず物も書けないと嘆いた末「この頃は何となく浮世がいやになりどう考へても考え直してもいやでいやで立ち切れず、さりとて自殺する程の勇気もなきは矢張り人間らしき所が幾分かあるせいならんか」とうちあけている。


 それに対する子規の励まし方が振るっている。「何だと女の祟りで眼がわるくなったと、笑わしやアがらア」と書き出し「『この頃は何となく浮世がいやでいやで立ち切れず』ときたからまた横に寝るのかと思えば、今度は棺のなかにくたばるとの事、あなおそろしやあなをかし。」と笑い飛ばし、面白おかしく近況を伝えながら励ますのである。漱石はこの後冗談にしても言い過ぎだと子規を攻め、子規は素直に謝っている。正に若き日の何でも言い合える友人であった。

 

二人の文学論

 さて、漱石と子規は明治2223年にかけてしきりに文学論を闘わせている。

明治22年の大晦日に松山に帰省している子規宛に漱石が子規の文学への心構えを批判して書いた手紙がある。


 漱石は子規の文章はなよなよとして婦人流だとし、「文壇に立て、赤(せきし)を万世に翻さん」(文壇に自説を打ち立てて改革し、後々までに影響を与えよう)と欲するならばまず思想を涵養することが大切であり、確固たる思想が自分の中に満ちれば直ちに筆を執って書けばいいのであって、文章の美しさなどは二の次である、と主張している。子規のように朝から晩まで書き続けたのでは、オリジナルなアイディア(思想)を養うことはできない。まるで子どもの手習いのように毎日毎晩書き続けることをやめて、余暇を使ってもっと読書をしたまえ、と訴えている。

 

更に翌年1月には「文章の定義」についてまとめたものを子規に送っている。

漱石は文章の要素をIdea(思想)Rhetoric(修辞)に分け、両方がベストならば良い文章であることは間違いないが、ベストなIdeaを悪いRhetoricで書かれた文章はオリジナルな良い文章といえるが、悪いIdeaをベストなRhetoricで書いてもそれは悪い文章に過ぎない、と持論を展開している。

 

 漱石が文学において思想―つまり何を伝えたいのかーこそが重要なのであって、文章のうまい下手は二の次なのだと言っていることは重要である。この後漱石が文学を研究していく時に文学的表現もさることながら、文学のバックボーンとなる哲学や歴史、ひいては自然科学までも学ぼうとした彼の姿勢につながっている。


 一方子規は漱石が指摘しているように学生時代寮生たちの食欲や胆力などの番付表からおもしろい出来事、家族のことまでまさに思いつくあらゆる身の回りの出来事を片っ端から文章にして「筆まかせ」と題して友人たちに回覧していた。

 

また、第一高等中学校英語講師Jマードックが課した課題「第16世紀に於ける英国及び日本の文明の比較」に対する二人の回答が残っている。漱石のそれは英文31ページに及ぶ大作であるのに対して、子規のそれは8ページで未完、しかも英語に直せず日本語のまま提出したものである。緻密な作業を積み重ねていくことは子規の不得意とするところであった。

 

この様に漱石は理を重んじ智に重きをなすタイプであるのに対して子規は理屈よりも感性に頼って生きていくタイプである。それはその後の二人の生き方の違いを見ても明らかな様に思う。

(こう書くと子規は怒ってくるかもしれない、後に万葉集以来の過去の俳句を分類するという大仕事を彼はやってのけたのだから)