• 大学を中退する子規
  • 子規のたくらみ
  • 一家の主人正岡子規
  • 取り残される漱石

大学を中退する子規
 明治246月子規は学年末試験を残したまま途中で松山に帰ってしまう。7月このままでは落第になるので9月の追試験を受けるよう漱石が手紙を出す。

 この時は漱石の助力もあって追試験に合格して、2年に進級することができたが翌年明治256月の学年試験は落第、常磐会(ときわかい)の給付金も停止され子規は退学を決意する。


常磐会とは旧伊予松山藩藩主久松家の育英事業で、伊予松山出身の子規はこの常磐会寄宿舎で生活しその育英給付金を受けていたのである。ちなみに漱石は成績が良かったため文部省貸費生として国からの給付を受けていた。

 

子規のたくらみ

 大学を退学するのと同時期、子規は新聞「日本」に寄稿を始めている。「日本」を主宰するのは陸羯南(くがかつなん)で、子規は叔父に紹介された陸羯南に何度も相談に行き、結局その年の121日をもって正式に日本新聞社に入社する。

 

(陸羯南 Wikipedia)

 陸羯南について触れておきたい。彼は青森の出身で27歳で政府の文書局に就職し、官報の発行に携わった後、32歳で官吏の職を捨て新聞事業を始める。翌年明治2233歳の年に政治家谷干城(たにたてき)の支援を受け「日本」を創刊、独立した言論活動を展開し、政府の方針にしばしば反対したため、新聞発行停止処分を何度か受けていた。

 

 この「日本」において正岡子規は俳諧改革の第一歩を踏み出すことになる。つまり子規が退学に至った経緯は、勉強を怠って落第したからという単純なものではないということだ。先述したように明治256月に学年末試験がおこなわれたが、子規は哲学の試験を受けようとしなかった。それより8か月前の明治2410月に陸羯南に良い下宿先がないか相談する手紙を出し、12月には常磐会寄宿舎を去り単身下宿を始めるのだが、それは小説を書くことに専念するためだった。


 そうして書き上げた小説「月の都」を引っ提げて子規は彼が尊敬してやまない小説家幸田露伴を訪問する。しかし、幸田露伴から期待した評価を得ることができず小説を書くことから俳句世界で活動することを見定め、陸羯南の西隣の下宿に引っ越すのである。そして527日から、木曽路の旅を題材とした紀行文「かけはしの記」を、626日からは「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」という俳句についての評論を新聞日本に連載するようになる。時期的にはこの2つの連載に挟まれる形で哲学の学年末試験があったことになる。

 

 つまり、子規は大学での勉強にすでに見切りをつけていたのである。子規はもともと哲学科に入学したのだが、哲学の講義を受けてもさっぱり意味が分からず、文学科に変わっている。大学の勉強や試験というものにほとほと嫌気がさしていたのだ。だから退学して文筆家として生計を立てる手立てを着実に進めていたのだ。

 

(正岡子規の勉強部屋 松山 子規堂にて著者撮影)


一家の主人正岡子規

 そして10月松山から母と妹の家族全員を呼び寄せることについて陸羯南と相談をし、陸から生活費は何とかしてやるとの確約を得ると11月には実際に家族を呼び寄せ、一緒に東京での生活を始める。こうして大学を中退した子規は新聞社日本の「半社員」としてスタートし12月に正社員となる。生活力があるというべきか、何ともがむしゃらな生き方である。


 しかしそれは単なる無鉄砲ではなく、自分の命が短いことを悟った子規が生き急いだ結果であるといえる。事実この退学騒動の間も何度か痰血しておりそれを母妹には言わぬよう叔父に告げている。

 

 学校の試験という重圧から解き放たれて文学で生きていくということは子規にとってよほど嬉しかったのだろう、母と妹を松山に迎えに行く途中高浜虚子と京都に遊んだ時のことを虚子が「子規居士と余」という文章の中で次のように書いている。

 

(高浜虚子 Wikipedia)

「二人は京都の市街を歩いている時分からこの辺(嵐山)に来るまでほとんど何物も目に入らぬようにただ熱心に語り続けていた。それは文学に対する前途の希望を語り合っていたのであった。子規居士の顔の浮きやかに晴れ晴れとしていた事はこの京都滞在の時ほど著しいことは前後になかったように思う。」

 

高浜虚子とは子規と同じ松山出身で文学を志し子規を頼って上京し、後に子規の後継者として文学雑誌「ホトトギス」の編集を担い、漱石に「吾輩は猫である」を書かせた人物である。この時はまだ第三高等中学の学生18歳で京都に下宿していた。

 

取り残される漱石

 この子規の退学に関して漱石は一貫して大学を卒業するように子規を説得している。これはまた涙ぐましいほどの友思いである。

 明治25619日の手紙では、哲学の試験が終わったけれども、受験しなかった子規に対して、あれなら後から試験を受けることもできるだろうから交渉するように忠告している。その後夏休みに入ってから、漱石と子規は連れだって京都旅行に出かけ、漱石は岡山の親戚の家に行き、子規は松山の実家に向かう。719日の手紙では岡山での観光の様子を伝えた後、試験の結果が悪かったことは、鳥に化けて姿をくらますには好都合だが、文学士の称号を頂戴するには不都合千万。君の事だからあと2年辛抱したまえと言ったら、なに鳥になる方がいいと言うかもしれないが、つまらなくてもまず卒業することが良い分別なのだから、もう一度考え直してほしい。と言って一句を添えている。

 

 鳴くならば満月になけほととぎす

 

満月が卒業を指すことは一目瞭然であろう。

 

 漱石はこの後岡山の親戚の家で大水害に見舞われ、避難するという大変な目に遭うのだがその後子規のいる松山を訪ねて半月ばかり滞在した後、8月末に共に東京に帰っている。一緒にいた期間は当然手紙のやりとりはないわけだが、漱石の再三にわたる説得にもかかわらず、子規の決心は固かった。いち早く学生という身分を抜け出し新聞社社員という社会人として活躍しだした子規の存在は漱石にとってまぶしいものでもあったにちがいない。

 

漱石はその年の5月から東京専門学校(現早稲田大学)の英語講師として教壇に立ってはいたものの、教師は漱石が本当にやりたい仕事ではなかった。文学で立ちたいという思いが漱石の中にあったことは漱石の一番弟子であり、漱石研究の第一人者である小宮豊隆氏が指摘している通りであろう。