私たちは皆、顔、体がそれぞれ違う。
だからこそ、自分の顔、体はどのような特徴があるのかを認識することができる。
なのに、人は愛の形、表現方法については自分のモノサシで図ろうとする。
顔、体、性格が全く同じ人はいないのであれば、
愛の形も全く同じ人はいない。
自分のモノサシで他人の愛を図ることは、
自分と他人の顔みんな同じだと勘違いしていることと、
全く同じである。
「自分はこうだから、相手もこうだろう。」
と決めつけてしまうと、
それは自分が目隠しをすると、
相手の顔を見れないのと同じで、
自分が正しいという名の目隠しによって、
相手の本質をしっかりと見れていないことになる。
そもそも、先祖が違うからこそ、顔、体が違うのと同様で、
それぞれ生まれ育った環境、性格が違うからこそ、愛の形も違う。
周りが自分と同じ顔、体だったら、
それほどつまらないことはないだろう。
それと同様、愛の形が違うからこそ、
自分を発見できる。
愛の塊である神様の分身である私たちは、
もちろん愛の塊である。
ただ、相手がいないと愛というものを認識できないし、つまらない。
つまり愛は相手がいてこそ価値がある。
だからこそ、神様は完ぺきな愛を分解し、
いびつな私たちになり、元の自分に戻る過程を通して、
自分の愛を知って行っている。
つまり人の数だけ愛の形がある。
不完全さを補い合うという所に愛の本質があるのだと思う。