過信とは、自分を信じ"過ぎる"こと。


つまり、自分だけにフォーカスをかけること。


でも、確信とは自分を"ただ"信じること。


過信とただ信じることは違う。


別物だ。


似てるけど違う。


「私は、この夢を叶えられるっっっ!ぜったいにぃぃぃぃぃ!!」


と言うとどこか力が入りすぎている印象があるだろう。


まだ信じたてで自信がないところがあって踏ん張ってる感じかもしれない。


でも、


「私はたぶん叶えられる。うん、絶対に。」


こんな感じにふわっとしてると、軽いけど執着がない。


重くない。


しんどそうでもなく疲れない。


これって結局叶う。


なぜならそこにフォーカスが当たり続けるから。


持続力があるのだ。


前者の方の勢いは長くは続かない。


その場のことや短期戦のことはいいのかもしれないが、


長期戦のことや現実創造という長い道のりになる可能性のあることにはこういう緩やかな方が続く。


不定期でいつ叶うかわからない。


そんな不安定なものにこそ、安定感のある後者の方がいいのだ。


また、自信が本当にあるから踏ん張る必要がないのだ。


なぜなら"大丈夫だって"知ってるから。


分かってるから、どこかに腑に落ちてるから。


腹落ちしてるのだ。


そうなるとその人は何事が来ても揺らがない。


土台がしっかりしてるから。


信じすぎなくなって他のことしてたって叶うって知るから。わかるから。口笛ブルー音符






正直いうと、本能って過去のものだと思ってる。


もちろんわたしにもまだあるが。


でもそれでもそう思ってしまう。


だって人間は動物よりも理性が優れている。


発達している。


それはなぜか。


それは動物にはできないことをするためだ。


三代欲求とやらは別に動物だってできる。というか同じだ。


でも、それ以外「社会性」や「人のために役に立ちたいという崇高な欲求」は人間以外ない。


他の動物は、本能に従って無意識に生態系の役に立っているが、あとは種の保存として役に立っているが、


でもそれでもそれ以外ない。


人間の場合、あえて「意図」をして行動に起こすことができる。


誰もやったことがなかったことや、昔の人がしなかったことを進んで意識的に遂行する欲求がある。


それはなぜか。それは「発展に役に立ちたいから」だ。


種の停滞ではなく、持続ではなく、それよりも発展進化を意図させられているのが人間だ。


だから"理"性がある。


理なのだ。


流れから規則性をもたらしというか、見出し、活用して次なるものを発展させるために使う。


AをAのままにすることができないのが人間だ。


どうしてもその先が知りたくなる。


環境破壊もその欲望の先に起きたものではなかろうか。


自然に争い、抵抗する。


それも人間の良くも悪くもサガなのだ。


元からある"本能"よりも、その先に生きたがる。


それが人間だ。


わたしはそう思う。


環境破壊をして地球が怒っているのであれば、


そもそも人間を地球は産む必要がなかっただろうか。


わたしはそう思う。


私たちは母なる地球の一部だ。


その中で育ててもらい進化してきた。


始まりは微生物かもしれない。


でもそれは地球の産物だ。


人間もだ。


なのに地球の一部である人間に地球が怒ってどうする。


わたしはそう思ってしまう。


でももし地球が少しでも地球にわだかまりを感じているのであれば、


それこそ地球としての癒しが必要だろう。


でもそれは私たち人間が全てで背負う必要がない。


手助けはできるが、私たちは地球そのものではない。


それなのに背負いすぎるのは荷が重い。


わたしは日々地球の怒りを感じている訳ではない。


それよりもむしろ、「もっと生きろ」と己を生きることを促されているというか、応援されている気がしている。


わたしを生きるというのはどういうことなのか。


それは人間の次なる人類フェーズに進むことだ。


わたしは人類を内側から支え、観察し、苦しみから解放してみんなで弥勒の世を作りたい。


そのためにみんなが必要だ。もちろん自分も。


誰かがいなくちゃ成り立たない。


それが宇宙であり地球だ。


酸素もそうだ。


もっと周りに素直に感謝し、今あるものを有効活用し、新たなものを生み出す。融合する。


それこそが地球ともう一度地球と融合し、素敵な地球を甦らせる、そして新たな世誰も見たことのないでもどこか懐かしい、


そんな世界を顕現させていきたいなと思う。


最後まで読んでくれてありがとう。ウインク




今回は「悪魔」について書こうと思う。

 

悪魔と聞くとネガティブなイメージが強いかもしれない。

 

でも実際、悪魔は私たちを教えてくれる・映し出してくれる鏡的な役割だと私は時々思う。

 

悪魔というとキリストっぽいというか宗教的な用語?のように感じることがありますが、

 

キリスト教というと、天使と悪魔という概念が他の宗教よりも強いのかな?と思う。

 

でもまあ私は宗教関係者でもないし、そんなにも関わることのない世界なので適当をいっているのかもしれませんが、

 

あながち間違っていないように思う。

 

私自身、悪魔というと「黒執事」という作品ぐらいしか身近に感じるものが少なく、あまり現実味を感じないが、

 

魂の目覚めを経験する内に、ますます闇の部分「悪魔な部分」を排除してはいけない、無視してはいけないと思うようになった。

 

というか嫌というほど実感してきた。体感してきた。

 

悪魔と聞くと魔女や宗教的な事、要はスピリチュアルなことをそう捉えることも多い。

 

でも、結局スピリチュアルの言っていることって光そのものだったりする。

 

黒魔術や白魔術などと、魔術も白黒で分けますが、

 

やっぱりもとは魔術なんですよね。

 

結局あまり変わらない。

 

作用の仕方が違うだけで。

 

天使と悪魔もそうで、

 

キリストを天使の様にあがめる人もいれば、さげすむ人もいる。どこかには。

 

それがいい悪いではなくて、対象の物事の穴を見ている人は必然的に「アンチ」に見える。

 

キリストが貼り付けにされたのも、結局のところ誰かはキリストの影を見ていたということでもある。

 

完璧な存在はいない。何かである時点で何かではない。

 

何かを犠牲にしているのです。われわれは。

 

得意不得意もその典型例だ。

 

この宗教が正しくてその宗教はつまらない未熟。

 

そんなことは本当はない。

 

でも、そう見えてしまうことがある。

 

そのネガティブな見方、批判的な見方は悪ではない。

 

天使の闇を悪魔が担っていたように、悪魔の光の部分を天使が担っていた。

 

お互いにひかれあっているんですよね。

 

キリストという人を悪魔の様に扱い怖がる人もあれば、神のようにあがめる人もある。

 

それもそれ。これもこれ。

 

なんです。

 

それはあった事実として受け止め、その上でどうしていきたいかを見定める。見極める。

 

これが大事だ。

 

そんなことをこの前アニメ「黒執事」を見返していて思ったのである。

 

天使には天使の脆さがあるんやなって。