「闇」って時々大事なことを思い出させてくれる。

 

時々というか、その人が本気を出せばいつだって学びとしていろいろ教えてくれる。

 

しんどい時、苦しい時、それはチャンス。

 

でもそう思えないのはなぜか。

 

その闇を排除しているからだ。

 

無かったことの様にしているから。

 

だから苦しいのだ。

 

苦しい時何としてでも欲しいと思ってしまう答えという名の光。

 

これはその闇にある。

 

排除しているものこそが光なのだ。

 

頼みの綱なのだ。

 

助けは実は闇の暗闇の底にある。

 

病気で苦しい時、病気にこそ光がある。あなたがもらうべきヒントがある。

 

それが病気を糧にできる人とできない人の違いだ。

 

病気に限らずそうで、悩み事やトラウマ。

 

自分がそのことを考えようとすると思考停止になってしまうような、

 

恐ろしいと感じる何か。

 

そこにこそヒントがある。

 

あなたがさらに幸せになれるヒントが。

 

ではその闇でどうしていたらいいいのか。

 

それは「ただ感じること」だ。

 

感じていればいい。

 

逆に言うと、何を感じるかを知ればいいのだ。

 

「あー、なるほどね。こう思ってるのね。」とか「こう感じるのね。」

 

と思考ちゃんを好奇心に変えてあげるのだ。

 

こうしていくと、闇を食らう側ではなく、闇を迎えに行く側になる。

 

好奇心で迎えに行くのと、恐れおののきながら襲われるの、どちらがいいだろうか。

 

いずれにせよ、闇とあなたは一体になる運命にある。

 

なぜなら自分だから。闇も。

 

自分の一部は自分になりたがる。それは当たり前だ。

 

闇が怖いとしても、それは見ていないからである。

 

見たふりをしてすぐにプイッとする。

 

それをやっているのだあなたは。もし今怖いものがあるとするならば。

 

でも、ただ怖がってる自分を感じて、感覚を研ぎ澄ませる。

 

そうすると感覚がすべてを教えてくれる。

 

感覚が、真実と幻想を「コントラスト」で教えてくれる。

 

これは嘘。これは本当。と。

 

怖いものも、怖い理由が分かったら怖くない。

 

人は正体不明だから怖がるのだ。

 

感覚がコントラストを教えてくれたら、それを好奇心という名の思考ちゃんで分析・解明していく。

 

好奇心の権化と化しているその時の思考ちゃんはまさに無敵状態で、

 

誰かや何かにおびえるのではなく、必要な情報だけをピックアップしてあなたのところに送ってくれる。

 

本来思考ちゃんはそうであるべきなのだ。

 

誰かにおびえたり、見くびられたりするものではない。

 

みんなそれぞれ尊い。

 

あまたが良いとか悪いとか、そういうのは本来測れない。

 

それぞれに感じ方が違うということはモノの考え方も違う。

 

人と違うことを思考は恐れるが、本来当たり前な事なのである。

 

あなたが人と違って怖くなる時はこのことを思い出してほしい。

 

そして大体闇の発生源はここにある。

 

 

 

この世界は加算方式だ。

 

どういうことかというと、「加算方式」で考えると分かりやすいということだ。

 

迷いがなくなる。

 

この世界は有限で限りがある。

 

でもこれすら無限の中から生まれた唯一のものだ。

 

選ばれた物だけが三次元に顕現している。

 

つまり、無限の中(増え続けている中)で生まれたものなのだ。

 

よくこの世界にはなんでもあるというが、

 

本当にそうで、この宇宙はいろんな可能性の中から選ばれたものが現れている。

 

あなたが嫌われている世界線もあれば、みんなに好かれている世界線もある。

 

諦めさえしなければ夢は叶う。

 

飛行機ができるって誰が想像してただろうか。

 

ネットという概念も。

 

誰かが「できる」と観測しなければできない。

 

そして私たちは今、この瞬間も新たな現実を創造し続けている。

 

時間が過ぎるということは、何かが増えている。

 

この宇宙は常に膨張し続けている。

 

あなたは歳を重ねるごとに経験を”積み重ねている”。

 

あなたが無理と思っていることは無理なのである。

 

逆にいうと、可能と思っていることは可能なのである。

 

よくスピリチュアル界隈では「私は100点満点である」という考え方に触れるが、

 

私も全くその通りと思い、同意している。

 

これはどういうことかを今までの話を踏まえて説明する。

 

この世界は増え続けているのであれば、足りないなんてことはないのだ。

 

つまり0点だ。

 

これはない。

 

何かしら持っている。

 

私たちはこの世界の一部で私たちが常に膨張する(増加する)性質を持っているからまとめて「宇宙は常に膨張していっている」と言われているのだ。

 

私がいるということは、日々なのかを考えて何かを得ている。学んでいる。

 

みんなも。

 

人間だけで見ても、人類は昔宇宙とやらを知らなかった。

 

地球だけが宇宙だった。

 

地球がどんな形をしているのかも、月の表面がどうなっているかも。

 

でも時間が経つにつれて科学の進歩により、私たちの宇宙観も拡大している。

 

これはスピリチュアルでも同じ。

 

こうして私たちは日々、知らなかったことを知っていっている。

 

引き寄せの法則の解剖度が上がって行っているのも、触れる人が増え、そもそも研究している人たちも日々成長していっているから。

 

このように私たちは成長している。

 

成長するということはそこには素材が無いとだめだ。

 

何もなかったら成長もくそもない。

 

この素材自体が、私たちが成長できる所以であり、核である。

 

核が「成長。拡大したい」という欲求を持っていなければこの宇宙はここまで広がらなかった。

 

これこそが華麗なるパラドックスである。

 

素材自体が拡大欲求そのものであり、なんでそうなのかというと、素材が拡大欲求でできているからである。

 

ポテンシャルと言ってもいいだろうか。

 

先程、この世界は無限の中(増え続けている中)から生まれたものだと言っただろう。

 

これがここにつながるのだ。

 

無限の中から生まれたものということは無限の可能性という性質を持った存在であるということだ。

 

子供は親の性質を受け継ぐだろう。

 

これと似ている。

 

でも親とは違う部分もある。

 

ここで言うと、形を持った三次元存在であるということだ。

 

親(源)は形が無い分、無限でいられ、欠陥という概念が無い。

 

私たちは形を持った存在である分、欠陥という概念をもっている。

 

あれができるけど、これができない。

 

それで当たり前だ。

 

だからそれで100点なんだよということだ。

 

無限のポテンシャルを合わせ持ちつつ、完璧ではない。

 

だからこそ、いろんな経験をできるし、いろんなものを”選べる”。

 

これは形あるものだからこそできる楽しみなのだ。

 

次元がさがれば下がるほど、この宇宙は不自由になる。

 

だからこそ得る体験も大きい。

 

完全無欠だったら、知れないし選べないし動けない。

 

なにもないしなにも始まらない。終わらない。

 

それでは嫌なのが我々人間である。

 

嫌よ嫌よ言いながらも、いろんな景色の見える旅が今ここでもできてる。

 

これだけでも私たちは夢が叶っているのだ。

 

良かったじゃないか。

 

これからも思う存分、100点の存在として人生をえり好みして欲しい。

 

選べる喜びは今しかないのだから。

 

宇宙の源さんは100点ですらないのだ。

 

点の概念すら超越してしまっている存在だから。

 

そこへ帰っていったら経験はないのだから。

 

 

「これもあれもあって、こんなこともあって、こんなのもあって、これはこうでぇ…」

 

そんな風にこの世界がこんな風だったらなぁ…って望むこと、誰でもあると思う。

 

でもそれは誰かにお願いして創ってもらうものでもない。

 

誰かに許可をもらわないといけないものでもない。

 

なぜかと言うと、自分で創るものだから。

 

自分が「こんな世界あってもいいよ」って。

 

叶っていいよって。

 

そんな世界が顕現してもいいよって。

 

だって自分がこの世界の創造主なんだから。

 

あなたが許可しないで誰が許可する?

 

そんなのあり得るわけないって思ったのは、あなたが創造する許可権をいもしない誰かに委ねていたから。

 

そうやって許可権をいもしない誰かに委ねている時、周りの人(自分の分身)が思い通りに動かなかったり裏切ってる・真逆を行っているという見え方しかできなってしんどくなる。

 

「え、許可くれないの?」

 

って。

 

「ねぇ、誰か許可頂戴よ」って。

 

でもね、あなたの怯えている他者って、自分の分身なの。

 

本体じゃないの。

 

そこに問いかけたってあなたの欲しいものは来ない。

 

だって幻想だから。

 

あなたの投げたボールは霧の中に消えるだけで帰ってこない。

 

だから他者に執着しているとどんどん自分が見えなくなる。

 

投げれば投げるほど消えていくから。

 

この世界を創造しているのはあなた自身。

 

あなたが自分のままあれば、ボールは手元に帰ってくる。

 

というかずっと手元にある。

 

許可書という名のボールは投げなくていいのだ。

 

というかいらない。

 

他者が自分とは違う振る舞いをしているように見えるのは、間違いであり分離の感覚が生んでる現象である。

 

分離は幻想で、他者なんてない。

 

自分も他者も同じでただそれが花火のように”分散して”この三次元は顕現している。

 

別れてなどいなく、中心を皮切りに分散している。

 

その中心とはどこか。

 

それがあなたである。

 

エゴではなく、本心のあなた。魂のあなた。

 

なんでかこれが好き。こうなってほしいと願ってしまう。これ嫌だ。

 

など。

 

あなたのエゴも他者同様幻である。

 

こうなってほしいと”強制”する。それ以外悪だと。

 

魂は強制はしない。

 

でもエゴは力を入れる。

 

ここの違いだ。

 

”私が”どうのという思考はエゴなのである。

 

本当は幻であなたなどいない。

 

私が得するとかどうとか、これはあなたという呪縛を創っているものだ。

 

これがいいとか悪いとかではない。

 

そういう次元ではなく、ただそれを選んで縛られに行っているのも自分自身だということだ。

 

選んでしているのと、それに気づかず自分に振り回され続けるのとでは人生の満足度や濃さも違う。

 

得するかどうかは、得しないかもしれないという”前提”から生まれる思考だ。

 

その前提から疑ってみるべきだ。本当に幸せになりたいのであれば。

 

神様などいない。

 

いるのは自分だけだ。じぶんという神様だけだ。

 

誰に機嫌を伺っている?

 

あなたは本来誰のご機嫌伺もしなくていい存在だ。

 

そのうえであえてする他者へのご機嫌伺いはいいだろう。きっと楽しい。

 

遊びだから。縛られてないから重くないししばられてるときよりも純粋にできるだろう。

 

遊びは純粋だからできるものだ。本来遊びとはそういうもの。

 

他者を上に置いてた時点でそれは遊びではなく義務になる。

 

遊びは生きる喜びであり生命力の源だ。

 

人は「楽しみたくて」今日も生きている。

 

その生きる意味をあえて後ろに伸ばす必要もないだろう。

 

伸ばしてもいいが、伸ばさなくてもあなたはいつだって楽しめるのならどちらを選ぶのだろう。

 

せっかくの人生、そして世界、せっかくなら自分好みにクリエイトしてみてはどうだろうか。

 

 

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